地図には大きく河原城と載っているが、これは町のシンボルとして城を模した展望台を造る時に公募された名であり、戦国時代に実際に存在した城は丸山城と呼ばれていた。ただ、丸山城と呼ばれる城は、鳥取市内に3つもあるため、戦国時代の事績を語る際にも河原城と呼ばれることが多いようだ。
ちなみにあと2つは、鳥取城攻防戦で有名な丸山城と、六反田にある吉岡氏ゆかりの丸山城である。一般に因幡の丸山城と言えば、鳥取城の出城である丸山城になるだろうか。
この丸山城は、武田高信が領していた河原町曳田の大振袖山城の北の出城として築かれたとされる。築城年代は不明だが、高信が因幡をある程度掌握していた永禄年間(1558-70)から元亀年間(1570-73)にかけての事だろう。
その後、史料には、天正8年(1580)の織田軍の因幡侵攻の際に秀吉が陣を張った場所と見えるが、これはあの有名な鳥取城籠城戦の時ではなく、山名豊国が城主だった時の鳥取城攻めである。

この時は、豊国が3ヶ月間の籠城に耐えたものの、結局は秀吉に降伏し、織田氏に臣従した。だが、毛利氏の吉川元春軍が奪回のために鳥取へ迫ると、豊国は再び降伏する事を選び、その節操の無さが原因となったのか、それとも主従で方針を違えたのか、やがて豊国は城から逐電したとも追われたともいう。
こうして鳥取城には、城将として新たに吉川経家が迎えられ、翌9年(1581)に凄惨を極めた鳥取城籠城戦が始まるのである。
秀吉がこの城に陣を置いたという、1回目の因幡攻略戦を追うと、隣国但馬から弟秀長の軍を侵攻させて鳥取城を攻囲すると共に、自らは姫路から侵攻し、若桜鬼ヶ城、私都城を落城させて秀長軍に合流したといい、丸山城に長期間滞在したとは考えにくい。だが、展望台建設に先だって平成3年(1991)から行われた全面発掘調査では、多くの郭と共に柱穴や堀切が確認されており、出城であったいわれる城ではあるが、それ以前から恒久的な建物はあったようだ。

地勢的にも、千代川と八頭川の合流点であるほか、眼下には智頭街道が通り、若桜街道へと繋がる街道もあったと思われる事から、間違いなく交通の要衝として警戒の必要な場所であり、兵が常駐していたのだろう。
だが、鳥取城攻略後は、その必要性の低下と、新たに支配地となった場合に織田氏が進めていた城割政策により、廃城になったものと思われる。
河原城の入口にある案内図からは、展望台を造るにあたって遺構のほとんどが破壊されたことが解り、実際に現地で丸山城の痕跡を探るのは難しいが、案内図によると、往時は山頂を中心に三方向に伸びた尾根筋に郭を重ねる典型的な中世の山城だったようだ。
また、河原城に展示されていた江戸時代の古絵図には、山頂の本丸を中心に、北西と南東方向に3段ずつ、北東方向に4段の郭が描かれており、表は北、井有りと、大手方向と井戸跡が書き込まれている。ただ、古絵図では方角があいまいで、村の位置などを考えると現地の方角と合わず、現在の地図との比較が難しい。

城跡に建つ展望台の河原城は、平成6年(1998)9月9日にオープンした施設で、山上から堂々たる姿で市街地を見下ろしており、はるか遠くからでも城の姿がすぐ判る。また、山上の駐車場やアクセスする車道も非常によく整備されており、訪れる時に迷うことは無いだろう。
展望台と駐車場の辺りを散策していると、駐車場を挟んで河原城と反対の方向に段郭のような削平地を見つけたが、これは案内図にある右下へと伸びた郭だろうか。地図を見ると、この山には展望台の反対側の南西にも小さなピークがあり、そこに該当する。城の防御を考えれば、ここには何らかの防御施設があってしかるべきだろう。
となると、これが丸山城の数少ない遺構ということになるのだが、案内板や古絵図にも表記が無いため、往時のものか造成の際に造られた地形なのか判断できなかった。

最終訪問日:2011/5/22
鳥取道を走っていると、燦然と輝く白亜の天守が見えますが、これが河原城なので、非常に分りやすいですね。
展望台から見ると、眼下で川が合流してくるのがはっきりと見え、なかなか壮観です。