Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

四ッ山城

四ッ山城の本丸にあたる一ノ岳全景

 益田氏とその庶流である三隅氏が、激しく争奪した山城。

 四ッ山城の名前の由来は、文字そのままで、標高220mほどの同形同高の4つの山に、それぞれ郭を築いて1つの城としている事からである。

 築城は、鎌倉時代中期に西石見一帯で大きな勢力を築いていた、益田氏の手によるという。また一説に、益田兼季の子多根兼政が築城したともされる。兼政の活動した年代は、13世紀後半の元寇の頃であり、この説に従えば、鎌倉時代後期の築城ということになるだろうか。

 築城からしばらく経った南北朝時代には、益田氏の当主であった兼見の子兼弘の名が城主として残っているが、これは、独立色を強めてきた三隅氏を始めとする支族との勢力争いで惣領制が崩壊し、領地の確保が難しくなっていたことが、背景としてあったかと思われる。そして、南北朝時代から室町、戦国時代にかけては、益田氏と三隅氏の争いが激化し、互いの領境の城であった四ッ山城は双方の争奪の城となり、城主が度々交代した。

 石見に影響力を及ぼしていた大内義隆が、天文20年(1551)の大寧寺の変で自刃した後、同24年(1555)の厳島合戦陶晴賢を討った毛利元就が、石見に勢力を伸ばして来ると、紆余曲折を経て、益田三隅両氏は共に毛利氏に服すようになる。

 しかし、元亀元年(1570)になると、三隅隆繁が、弟国定や同族の周布晴氏と共に、元就の次男で山陰を統括していた、吉川元春に対して叛乱を起こす。これは、山中鹿之助幸盛が主導する尼子再興軍からの誘いがあったとも、益田氏に対抗する思惑があったともいう。

 この叛乱当時、四ッ山城は三隅氏の支配下にあったのだが、当然のように叛乱の鎮圧を図る毛利軍4千5百に包囲され、家臣で城将だった須懸忠高が将兵5百と共に奮戦するも敵わず、壮絶な討死を遂げている。また、三隅氏も同様に、吉川元春率いる毛利軍に蹴散らされ、隆繁の自刃で三隅氏は滅亡した。

 その後、四ッ山城がいつ頃に廃城となったかは不明だが、毛利氏が防長二州に押し込められた慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後か、その少し前に廃されたようだ。

 城は、眼下に益田川の川筋を廻らせた連山にあり、東端の山である一ノ岳を主郭として、西に向かって川沿いに延びる二ノ岳から四ノ岳までを城砦化し、それぞれが峻険な山容を持っている。

 整備されている一ノ岳への登山道の途中には、竪堀や堀切の跡も確認できるほか、一ノ岳の頂上付近には2段削平地があり、特に頂上部はかなり大きく、さすがは三隅三城に数えられるだけの規模を持った城と言えるだろうか、実際に城を散策してみると、戦略上、かなり重要な城であったことが実感できる。ただし、普通に登ることができるのは一ノ岳までで、二ノ岳から四ノ岳への登山道はほとんど整備されておらず、散策を諦めた。

 

最終訪問日:2001/10/27

 

 

道路地図にあった表示を見てフラっと訪れた城でしたが、なかなか良い城跡でしたね。

インターネットで調べてみると、訪れた時は藪化していた二ノ岳以降への道ですが、今は草も刈られ、散策できるようになっているようです。

機会があれば、再訪してみたいですね。