Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

若山城

現地案内図の若山城縄張図

 大内家中で守護代層の代表的存在であった陶氏の居城の山城。

 文明2年(1470)、大内氏の当主政弘が応仁の乱への参陣で上洛している中、その留守を任されていた叔父教幸(道頓)が、当時は東軍方であった将軍足利義政から、家督を認められて叛乱を起こした。俗に大内道頓の乱と呼ばれる叛乱である。この時、周防守護代であった陶弘護は、道頓に同調した津和野の吉見信頼らに備え、若山城を築城したという。

 これが一般的に若山城の始まりとされているが、一説には、陶氏の2代弘政の頃には築城されていたともいわれ、もしそうであれば、120年ほど築城時期は遡る。

 陶氏は、百済聖明王の子孫という家系伝説を持つ大内氏の庶流で、大内盛房の子盛長が周防国佐波郡右田に住して右田を称し、その裔である盛俊の次男、あるいは盛俊の子である弘俊の次男が、鎌倉時代末期から南北朝時代頃に吉敷郡の陶に住んで陶を名乗った。この人物が、陶家の祖となる弘賢である。

 弘賢の子弘政の代であった南北朝時代初期の大内氏は、当主弘幸の伯父で庶流鷲頭氏を継いでいた長弘が、鎌倉時代滅亡の際にいち早く後醍醐天皇に味方し、周防守護に任ぜられて惣領となっていた。

 弘幸やその子弘世は、惣領奪回の機会を窺っていたが、観応元年(1350)の観応の擾乱での混乱を機に、南朝に帰順して弘世が南朝方の周防守護となり、4年の歳月を掛けて鷲頭氏を臣従させ、惣領を回復している。

 弘政が、陶から若山城のある富田保に入部したのは、ちょうど惣領奪回に動いていた正平7年(1352)頃といわれており、年代的にも地理的にも、東方の下松の切戸川流域を本拠とする鷲頭氏への、楔の役割があったのは明白だろう。

 そして、この弘政期に、寺院建立などの領内整備が行われているが、詰城として若山城も同様に整備された可能性は十分に考えられる。元々は非常時の詰城に過ぎなかった若山城を、弘護期の不穏な情勢の中で、本格的な城へと改修したのが実情なのかもしれない。

 その後、大内氏の勢力拡大と共に陶氏も発展し、弘政の子弘長は長門守護代に、その2代後の盛政は周防守護代に任ぜられ、以降は周防守護代職を世襲した。

 盛政の孫弘護は、前述のように大内道頓の乱の頃の当主だが、当初は道頓の誘いに同調したようで、時間を稼ぎ、後に叛乱軍を撃退している。前述のように若山城を整備できたのも、時間稼ぎの成果なのだろう。また、この叛乱軍に吉見信頼がおり、もともと陶氏と吉見氏の間で領地を巡る争いがあったことから、真っ先に標的にされる恐れがあったと思われる。

 だが、積年の領地争いやこの叛乱の際の対立から、結局弘護は後に政弘が催した宴席で信頼に斬られて死んでしまい、しばらく勢力を弱めることとなった。また一説に、この暗殺劇は、弘護の権力の大きさを警戒した主君政弘によるものともいう。

 弘護の死後、当初はその子である武護や興明が幼年であったため、弘護の弟右田弘詮が後見したが、やがて両人は内訌などで死去してしまい、興房が弘護の三男ながら家督を引き継いだ。

 興房は、大内義興の側近として数々の軍功を挙げた名将で、義興死去の際には後事を託され、義興の子義隆を補佐し、義興晩年から義隆前期にかけての大内氏の全盛期を支えた。この興房の死後、長子興昌が討死していたため、次男であった隆房(晴賢)がいよいよ登場する。

 隆房は、義隆の側近として重用され、父の功績を追うように、自身の軍事的才能でもって重臣筆頭の地位を占めた。しかし、義隆が天文11年(1542)の月山富田城攻めの失敗以来、失意のあまり政務を忌避したのか、それとも統治体制を側近の文治派中心に動かそうと考えたのか、相良武任を重用するようになったため、隆房ら武断派重臣団との間に亀裂が生じるようになる。

 そして、天文19年(1550)になると、隆房は若山城に引きこもって城の修築を始め、翌年にはついに謀叛の旗を挙げた。この叛乱は、大寧寺の変と呼ばれ、他の重臣の支持もあって僅か数日で義隆を自刃に追い込み、嫡子義尊をも謀殺して終結するのだが、隆房は当初、7歳であった義尊を擁立する算段であったともいわれる。だが、結果的に義尊が殺されていることや、事前に大友氏に対して、義隆の姉の子で大友宗麟の弟である晴英を後継者として迎えるよう打診していたという説があるなど、論議は帰結していない。

 隆房は叛乱後、前述のように大友氏から晴英を養嗣子として迎え、後に義長と名乗らせた。ちなみに、隆房が叛乱後に改名した晴賢の晴は、晴英からの偏諱である。

 この後、晴賢は義長を担いで、威に服さない旧家臣を討伐するために東奔西走するが、天文24年(1555)に毛利元就の深謀に掛かり、厳島の合戦で敗れてあえなく命を落としてしまう。

 晴賢の実権掌握後も、家中が鎮まらないため、当初は協力的勢力であった元就に、安芸や備後の諸豪族の調整や軍事行動を一任せざるを得ず、その結果として親毛利の勢力が予想以上に大きくなってしまったのも、晴賢が元就に敗れた大きな原因のひとつであった。家中に敵対する武将が少なくなかった晴賢の求心力の無さが、招いた結果とも言えるだろうか。

 晴賢の敗死後、嫡子長房が若山城を守ったが、晴賢が自害に追い込んだ杉重矩の子重輔が、兵2百で恨みを晴らすべく若山城を攻め、長房は城から脱出したものの追撃を受けて自刃した。ただ、長房の没年に関しては、厳島の合戦と同じ年である弘治元年(1555)から同3年(1557)まで複数の説があるほか、毛利軍が開城させた際に逃れて落ち延びたという異説もあるようだ。

 その後、城は陶家臣団によって守られていたが、前述のように毛利勢が迫った弘治3年(1557)の沼城落城後に若山城は開城し、長屋小次郎が城番となっている。しかし、そこへ西から大内軍2千が迫り、城内の陶旧臣も呼応して放火したため、城は落城した。その後の城の事績は不明だが、毛利軍が接収し、廃城にしたという。

 城は、富田にあったことから富田若山城とも呼ばれ、眼下に山陽道と瀬戸内海を収める、標高217mの若山頂上に本丸を置いて南北を断崖で守り、東西に延びる尾根筋の東に二ノ丸と三ノ丸を、西に西ノ丸と蔵屋敷を置いて防備を固めていた。その規模は全長約400mもあり、当時の陶氏の勢力が窺える。また、これらの郭の周りには無数の竪堀と堀切が配置され、落城後すぐ廃されたためか、今でもその遺構がはっきりと確認でき、戦国中期の姿を残す城としても貴重だ。

 現在、城跡は公園として整備されており、訪れた日も数家族がピクニックに来ていたが、山頂から東の二ノ丸と三ノ丸は駐車場と広場になっており、この部分はいかにもピクニック向けの公園といった感じである。

 本丸へは、駐車場付近から本丸と二ノ丸の間を結ぶ往時からの通路が出ており、それほど整備されている訳ではないものの歩きやすく、本丸付近には段になった小郭や竪堀が見られた。このほかには、本丸から堀切を隔てた西ノ丸には石垣が僅かながら残っている。

 本丸を散策中にふと南側を見ると、瀬戸内の景色が広がって抜群の眺望だったが、これは城が要害の地にあった事の証明でもあるのだろう。しばし時を忘れてしまうほど清々しい景色だった。

 

最終訪問日:2001/11/10

 

 

公園化で中核部分の半分が無くなっているのは残念ですが、その代わり、登城するのが非常に楽なお城となっています。

眺望が非常に良く、桜の名所にもなっているようで、地元の方がよく来られるお城になっているようですね。