Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

神出山城

 神出はカンデと読み、割と古くから発展していた土地で、鎌倉時代にはこの神出山城のある雌岡山の西南麓に陶窯が営まれていた。陶窯はやがて明石の魚住へと移っていくのだが、明石郡の主要道として南北に走る三木街道があり、この辺りは開墾しやすいなだらかな地形でもあることから、集落は完全には廃絶せず、次第に周囲を耕地化していったのではないだろうか。

 神出の城が史料上で確認できるのは室町時代で、神出城主として神出範次という名が見える。この範次は、室町幕府草創の功臣として知られる赤松円心則村の曾孫にあたり、則村の嫡子範資の系統という。

城の遺構かどうか不明だが古い時代の石垣も確認できる

 範資は、父の死によって播磨守護を継ぎ、自らが任命されていた摂津守護と兼務したが、僅か1年で急死してしまったため、播磨守護は弟則祐が継ぎ、摂津守護は範資の嫡子光範が継いだ。そして、光範は後に守護職を失い、惣領は名実共に則祐の系へ移っていくのだが、この光範の次男が神出城主の範次である。

 また、範次は子元頼に神吉荘を与え、元頼が神吉氏の祖となっていることから、著名ではないにしても、その血筋もあって郷村の小領主という規模ではなかったようだ。

 だが、これ以降の神出の城の詳細についてはよく判っていない。また、神出の城としては、この神出山城と平野部の丘陵にあった城の2つがあり、詰城と里城であったのか、それとも全く別の城であったのかなどの関連性も判っていないという。

参道としては不自然な細長い平坦地は郭跡か

 存続期間についても、戦国時代の天正6年(1578)から始まった三木合戦の際に、別所氏に味方した南東5kmほどの端谷城の衣笠氏の動向は窺えるものの、神出氏や三木城の有効な支城足り得た神出城に関する事跡が見えないことから、播磨の各領主が総入れ替えとなった嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱などの影響もあり、この頃には既に廃城になっていたものと思われる。

 城地は、現在は神出神社の境内となっており、削平地としては、社殿や社務所のある頂上部、その北東側にあるほどほどの大きさの駐車場、そして更に北東側にある大きな臨時駐車場の3つの削平地があり、南西側にも帯郭のような平地があった。この内、頂上部と、何も利用されて無さそうな南西の帯郭らしき平地は、往時からの地形を利用したり拡張したりした可能性がある。

神出山城跡の雌岡山から明石海峡の眺め

 これ以外の、北東側の駐車場に関しては、現地を見ても判断のしようがなかった。また、境内南西部には、僅かながら古い時代の石垣らしき石塁があるが、これも城郭に由来するものかどうかは不明である。

 雌岡山は、近くの雄岡山と共に古代から夫婦神として祀られていた山で、神出富士と称されるように稜線が美しい。だが、山自体は円錐型ではなく、北東から南西にかけてが峰筋となっており、東南側はかなりの急斜面で、往時はこの急斜面が防御力の大きな部分を占めていたのだろう。今では、それを生かして神社境内には展望台が設けられており、眺望が非常に素晴らしい。

 

最終訪問日:2024/1/4

 

 

実は、毎年正月にバイクで初乗りに出かけている、馴染みが深いお城です。

神出神社にお参りして、明石海峡大橋の眺めを見ながら一休みするのが、毎年のルーティンのようになっていますね。

頂上まで遊歩道も車道も通っているので、自分の足で登り、下りた後にバイクでも上り、一年が始まります。