Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高野山金剛峯寺

金剛峯寺遠景

 大日如来を絶対真理とする山岳密教として、空海が立教開宗した真言宗のかつての総本山で、本尊は阿閦(アシュク)如来である。金剛峯寺の寺号の由来は、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経という経典から空海が名付けたという。

 空海高野山開創の勅許を得たのは弘仁7年(816)で、伽藍の建立が始まったのは同10年(819)頃からとされるが、空海が多忙であったことや、民間の勧進による私寺での建立を目指したため、伽藍の建設はなかなか進まなかったようだ。承和2年(835)に官寺に列したことや、同年に空海奥の院で入定した後も弟子が伽藍の整備を進めたことで、仁和3年(887)に一応の整備を終えた。

 その後、内的には数度の落雷や根来寺の分派などがあり、外的には膨大な寺領を背景とした勢力の大きさに対する警戒感から時の権力者と対立したり、また、逆に復興の援助があったりと、歴史が古いだけに時代によって盛衰があったが、現在まで脈々と伽藍は受け継がれている。堂塔寺院については、明治期には600以上もあったらしいのだが、明治24年(1891)に130ヶ寺に統合され、現在は金剛峰寺を除いて117ヶ寺という。

  官寺に列して以降は、国家鎮護の寺院という色彩が濃かったが、平安中期以降は、祈祷や護摩行が盛んになり、宗教としての発展は鎌倉期に勃興した新仏教に道を譲った格好になる。だが、それら新仏教の開祖である法然日蓮も、一時ではあるが高野山で修行していることは見逃せない。

空海が入定したとされる奥の院の参道

 真言宗としては、伝統を持つ大きな組織に付き纏う話でもあるのだが、東寺と金剛峰寺の対立や、前述のように古義派と新義派との対立から根来寺が分派するといった対立の歴史があり、やがて、近代には大真言宗として一旦はまとまるものの、すぐに分離独立が相次いだ。そのような流れもあり、高野山も正式に高野山真言宗として昭和21年(1946)から独立した宗派を名乗っている。

 現地に立ち寄ってみると、弘法大師が入定し場所であり、信仰の中心にもなっている奥の院と、真言宗の総本山である金剛峯寺が、駐車場も近くてお参りしやすい。ただし、この金剛峯寺の建物は、秀吉が命じて建立させた青厳寺の建物を明治以降に金剛峯寺と呼ぶようになったもので、元来は、一山全体が金剛峯寺なのである。

 奥の院に続く参道沿いには、圧倒されるほどの墓石の数があるが、中でも有力な企業が殉職した従業員を祀る為に用意したものや、財力のある家の墓などは、規模も大きく、目を引く。各墓や供養塔を見ると、その歴史が凝縮されているようで、厳かながらも面白い。

 

最終訪問日:2003/4/27

 

 

武家時代には、しょっちゅう「高野山に上る」というのが出てきますが、小さくなったとは言え、納得できるだけの巨大な宗教都市ですね。

奥の院にずらりと並ぶ墓石は、時代時代の様相が出ているようで、美術的な趣さえありますね。