Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

北山城

北山城北西端の削平地と物見台跡と思われる台状の地形

 南北朝時代から東越中の主たる拠点であった松倉城の、北約2.2kmに位置する支城。

 松倉城は、前述のように南北朝時代から戦国時代までの長期間に渡って東越中の拠点として使われたため、随時、拡張と支城網の整備が行われたと見られ、多くの支城を持っている。そのひとつがこの北山城であり、金谷山城ともいう。文字通り、松倉城の北側の山に位置する城である。

 北山城は、史料には殆ど登場せず、戦国時代の永禄11年(1568)に、上杉謙信によって松倉城が包囲された際に落城したことが見える程度で、築城時期を始め、城主名、廃城時期も不明という。

 ただ、松倉城は、領地支配が安定した前田氏時代には、魚津城に主役を譲り渡して重要視されておらず、必然的に城下町の縮小も起こったはずで、城の持つ北の守りの役目の意味がほぼ無くなったと考えられるため、廃城時期については、魚津城への機能移転の頃と目星が付けられるだろうか。

北山城説明板

 築城時期に関しては、同じく支城である水尾城が貞和2年(1346)に陥落した文書が残っており、南北朝時代から松倉城の支城網の整備が進められていたのは間違いないのだが、その最初は、角川と早月川に挟まれた丘陵部の区画であったと思われ、北山城の築城は、水尾城のかなり後と考えられる。つまり、松倉城城下町が北山や坪野方向に発展するに従って、その守備の必要性から北山城が整備されたのではないだろうか。

 そう考えると、その時期は南北朝時代を過ぎて政情がある程度安定した室町時代中期以降から、戦乱による防衛の必要性が生じた戦国時代初期あたりの可能性が高そうだ。

 城は、松倉城から川筋を挟んだ北側の山に構えられており、頂上部を逆L字型に削平して城域を確保している。逆L字型の一方の先端である北西突端部は、その手前に比べてやや高くなっており、物見台があったのだろう。

北山城縄張図

 同じく城郭内の高さを見ると、逆L字型の鈎部がやや高くなっており、竪堀なども厳重に張り巡らされているため、ここが城の中心だったと思われる。ただ、北西側は綺麗に整備されているものの、L字型の鈎部は藪化しており、遺構ははっきりと確認できなかった。

 城へは、松倉城へ向かう県道33号線に案内表示が出ており、道程は非常に分かり易い。また、北山鉱泉の小さな温泉街のすぐ上であり、北山鉱泉に向かえば自然と城の場所も判るだろう。

 城への道は、非常に急で狭くもあるが、主郭部のすぐ直下まで舗装道が繋がっており、小さいながら駐車場も用意されているので、訪れるのは非常に楽だった。城跡の北端の物見台跡らしき場所からは、魚津市街から日本海までの眺望が開けており、往時は、敵の接近をこの場所で視界に捉えたのだろう。当時の様子に思いを馳せると、眺望の良さもあったのか、妙に感慨深く感じられた。

北山城の中心と思われる一段高い最高部は藪化していた

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

松倉城一帯は、本城はもちろん、支城群の史跡整備が行き届いてますよね。

北山城は支城なので、マイナーではあるんですが、藪化した一部を除いて整備もされており、散策しやすかったです。

魚津と日本海の眺望は、本当にお勧めですね。