尾道は、対岸の向島との距離が非常に近く、古くからこの川のような尾道水道を活用した水運の町として発展してきた。
尾道の名の由来は、現在の平地がまだ埋め立てられていなかった頃、海に迫る山の尾根にひと筋の道があった所からとも、伊尾から運び出される道という所から来ているともいう。また、異説として、水路を表す澪の道から来ているともいわれる。
史料では、平安時代にはすでに尾道の名が見え、鎌倉時代末期には備後最大級の荘園である大田荘の倉敷地として守護不入の地となり、大いに発展したようだ。
室町時代に入ると、荘園領主の高野山の請地として山名氏が実地支配し、備後守護を務めていた山名氏の守護所が置かれ、守護代太田垣氏が現地で実務を担った。

その後、室町時代末期に山名氏の勢力が衰えると、大内氏に属していた杉原氏の勢力が及び、杉原氏がそのまま毛利家臣として安土桃山時代まで支配している。
江戸時代に入って以降も、日本海各地と瀬戸内経由で大阪を結んだ北前船航路の寄港地として繁栄が続き、明治時代には、鉄道の開通による物資の集散や造船などでも発展した。こうして、戦前には県下で広島市に次ぐ経済力を誇ったという。
しかし、近年は造船業の斜陽化と高速道路の開通による水運の衰退で、産業構造の転換を余儀なくされており、その高速道路網を活用した中四国の十字路としてのアプローチや、文学作品や映画、アニメの舞台になったことによる観光産業が盛んとなっている。

尾道は、坂の町としても有名であるが、それは何よりも、前述のような数々の作品の舞台となったことが大きいのだろう。また、造船都市でありながら戦時中に市街地が空襲を免れたため、寺院も多く残っており、古き良き街並みが残っているという点も大きい。狭い路地と坂という組み合わせは、独特の風情があり、これが尾道の顔となっている。
千光寺公園から町並みを眺めてみると、まさに川としか言いようの無いほど、細い海域がうねりながら街の前に横たわっており、尾道でしか見られない独特の景色だった。夜は夜で、向島から眺めると街灯が尾道水道に映り、日本三大夜景とはまた違った箱庭感のある良い景色である。ちみなに、街灯は暖色系で統一されているといい、観光都市ならではの工夫なのだろう。

最終訪問日:2023/2/12
最初に訪れたのは、学生の頃に国道2号線を広島まで走った時で、尾道水道の狭さと、すぐ目の前に島が見えるという景色に驚きました。
商店街にも観光客が多く、食べ歩きをしながら古い街並みを散策するのが心地よいですね。
乗ってみたかった渡し船にも乗りましたし、満喫度合いが高い街になりました。