Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鞆ノ浦

鞆ノ浦の石畳と街並み

 古い町並みが残る、情緒豊かな湊町。

 鞆ノ浦という呼び方は、正確には鞆という土地の周辺海域を表すため、湊や湊町自体は鞆ノ津や鞆だけで良いのだが、一般には町全体を鞆ノ浦と呼ぶことが多い。ちなみに、鞆にかつてあった城や自治体は、鞆ノ浦城や鞆ノ浦町ではなく、鞆城と鞆町である。

 鞆は、周囲の島々と入り江の地形によって風から守られる上、鞆ノ浦の沖で潮目が変わることから、古くから瀬戸内海の潮待ち湊として発展した。その歴史をどこまで遡ることができるかは不明だが、有史以前から集落があったとされ、魏志倭人伝の投馬国を鞆に比定する説もある。また、伝承では、神功皇后が稜威の高鞆という弓具を奉納したことから、鞆の地名が起こったともいう。

鞆ノ浦の路地

 奈良時代には、万葉集の歌の中にも採り上げらているほど、中央にも存在は知られており、以降も連綿と瀬戸内航路の主要な湊として続いた。

 また、建武の新政の頃に、九州落ちした足利尊氏が、後に勢力を盛り返してこの鞆の地で新田義貞追討の院宣を受け、京へ駆け上って幕府を開き、戦国時代には、織田信長に追放された最後の室町将軍足利義昭がこの鞆に滞在したことから、室町幕府は鞆で興り鞆で滅びたともいわれる。

 幕末の文久3年(1863)には、政変によって京を追われた公家が長州に落ち延びる際、途中でこの鞆に立ち寄り、保命酒の醸造元である中村家に滞在するということがあった。また、慶応3年(1867)には、坂本竜馬率いる海援隊が運用するいろは丸に、紀州藩の軍鑑明光丸が衝突し、曳航途中に鞆の沖に浮かぶ宇治島近辺で沈没したため、初期の賠償交渉がこの鞆で行われているなど、歴史の流れの中で度々登場している。

鞆ノ浦から出港する平成いろは丸とその先に見える弁天島仙酔島

 しかし、湊の繁栄は、江戸時代後期頃から翳りが見え始め、近代に入ると、鉄道路線から外れたことや大型船舶が入港できないことから、港湾としては寂れてしまった。だが、そのお陰で江戸時代の街並みがほぼ残ったまま、平安時代から知られる景勝の地という面が相対的に大きくなり、風光明媚な古き良き湊町として現在は評価されている。

 鞆の観光ポイントとしては、景勝の地、江戸時代の形を残す湊、古い町並み、歴史、という大きく4つのポイントが挙げられるだろうか。

 景勝としては、鞆の後背の山麓や中腹に建てられた寺社などからの眺めや仙酔島があり、湊としては、常夜灯や雁木、波止場、焚場、船番所という古い港湾施設が残っている。特に、この港湾施設がすべて揃っているというのは鞆だけといい、非常に貴重なものだ。

鞆ノ浦の高低が解る石垣のある路地

 古い町並みについては、江戸時代や明治時代の地図がそのまま利用できるといわれるほど町並みが変わっておらず、路地が非常に細い分、今の町には無い折り重なるような家屋の存在感があった。歴史については、坂本竜馬やいろは丸関係が多いが、中心部には鞆城跡があり、各寺社の古色や、鞆七卿落遺跡とも呼ばれる太田家住宅も雰囲気が重厚で、見逃せない。

 鞆ノ浦を全体的に見れば、かつて架橋問題があったように、北と西を結ぶ道路が鞆市街の細い道によってボトルネックとなっており、渋滞などもあって鞆一帯を車で移動するのはなかなか大変だが、町自体は非常にコンパクトにまとまっており、徒歩で散策しても、見所の多さの割に疲れなかった。また、坂も多いために変化があり、散策をかなり愉しめる湊町である。

 

最終訪問日:2014/6/14

 

 

どこか見たことがあるような街並みの懐かしさと、景勝地としての景色の良さに加え、知的欲求も満たしてくれる深い歴史が鞆にはありました。

早朝に訪れたので、ほとんど観光客もおらず、ゆっくり散策できたので、とても満喫できましたね。