Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

いろは坂

 日光の寺社群の西、馬返と呼ばれる場所から中禅寺湖までを結ぶ道で、第一と第二の2本あり、第一は全線下りの一方通行、第二は明智平より下の部分が上りの一方通行である。ちなみに、日光連山はかつて女人牛馬禁制で、馬返という地名は、この禁制によって馬が引き返された場所という。第一と第二を合わせた全長は15.9km。

 日光は、古代より自然崇拝が行われてきた場所であったが、勝道上人が天平神護2年(766)に紫雲立寺を創建して修行の場としたことにより、自然崇拝と山岳仏教修験道が習合した霊場となった。

 その勝道上人は、延暦元年(782)に男体山の登頂に成功しているが、以来、男体山は神聖なる神山として崇められ、日光連山への修行路や登山路として道が拓かれることとなる。この道が、いろは坂の元という。

 日光一帯に霊場以外の性格が入ってくるのは近代になってからで、明治初期に前述の禁制が解かれてからなのだが、これには、神仏習合そのものである修験道が、どちらかと言えば仏教に属していると見られたため、廃仏毀釈の影響があったように思われる。

 この禁制解除以降、やがて各国外交官の避暑地として好まれるようになり、滞在のための別荘などが建てられ、次第に人の往来が増えた。これに伴い、大正時代に整備された道が、いろは坂の原型で、いろは坂と呼ばれるようになったのは、昭和8年(1933)に開業したロープウェイでのアナウンスによるという。

 戦後に入ると、本格的な車道としての整備が始まり、国道に指定され、昭和29年(1954)には、第一いろは坂で対面通行の有料道路として料金徴収が開始されている。その後、交通量増大や頻発する渋滞に対する対策として、昭和40年(1965)10月7日に明智平を挟んだ南側に第二いろは坂が開通し、第一第二いろは坂の両方を合わせて有料道路の日光道路となっていたが、昭和59年(1984)10月1日に無料開放された。

 現在は、単なる国道120号線ではあるが、その日光から沼田にかけての部分が日本ロマンチック街道の一部となっており、いろは坂も街道の情景を成す重要な一区間となっている。

 いろは坂の名前の由来は、大正時代に整備された道に、いろはにほへとの48音と同じ48のカーブがあったことに由来するのだが、新しく整備された第一いろは坂の開業時には、カーブの数が30に減らされ、その由来が消えていた時代があったという。

 その後、第二いろは坂が開業することになり、カーブが合わせて50となるため、第一いろは坂の一部も整備してカーブを2つ減らし、現在は第一第二を合わせて由来通り48のカーブとなっている。

 日光の町並みが完全に途切れる清滝から西へ向かうと、深い山々へ向かうようにいろは坂へと入って行く。道は、最初はそうでもないが、次第にコーナーがきつくなって行き、中腹当たりからはヘアピンの連続となる。この辺りは、さすが漫画にも登場するほどの道かと感じるほどの厳しさで、ひたすら左右のコーナーが続く。ただ、言い換えればやや単調とも言え、ドライバーやライダーの好みが分かれる部分かもしれない。

 

最終訪問日:2014/5/10

 

 

訪れた日は、やや霧が掛かっていて、いろは坂からの景色は楽しめませんでした。

個人的には、いろんな種類のコーナーを楽しみたいタイプなので、ヘアピンの連続には少し退屈な部分もあったんですが、バイクを倒し込む走り方が好きな人は、かなり楽しめそうな道ですね。

上りの第二いろは坂しか走りませんでしたが、地図で見ると、第一いろは坂は古いこともあって、よりタイトでヘアピンの数も多いみたいで、もっと好みが分かれそうです。