高杉晋作の功山寺の挙兵で有名な功山寺の東に隣接して建っている博物館で、主に中世から近世にかけての長府に関する資料を展示している。
この長府博物館の前身は、昭和8年(1933)10月に桂弥一が創立した長門尊攘堂で、尊王精神の高揚が目的だったという。
そもそも尊攘堂とは、幕末の長州藩の尊皇攘夷の志士達の師である吉田松陰が考えていたもので、古今の勤王の人物を祀り、有為の志を集めて身分の上下無く人々に尊皇攘夷思想を教育する機関であった。だが、松陰の手で建設することは叶わず、松陰は死の直前に、門下生四天王のひとりに目された入江九一に対して手紙で建設を託したが、その九一も元治元年(1864)の蛤御門の変で戦死し、尊攘堂のことは忘れ去られてしまう。
その後、同じく松陰の門下生だった品川弥二郎が、この事を偶然知り、明治20年(1887)に京都で別邸を購入して敷地内に尊攘堂を建立した。弥二郎は、尊攘堂に幕末から維新にかけて散っていった志士たちを祀り、毎年祭祀を続けていたという。ちなみに、明治33年(1900)の弥二郎の死後、収蔵物は京都帝国大学に寄贈され、同36年(1903)に新たに建てられた尊攘堂が、今も京大に残る京都の尊攘堂である。
長門尊攘堂の建立は、弥二郎と親しかった弥一が、弥二郎から委嘱され、旧藩主である毛利家の援助や有志の支援を受けつつ、弥一自身の私財をも投じて建設したものという。弥二郎が別邸に尊攘堂を建立してから、実に46年後のことであった。
戦後には、社会情勢の変化を受けて財団法人となり、昭和21年(1946)に先賢記念長府博物館、同25年(1950)に長府博物館と名を変え、昭和55年(1980)4月1日からは下関市に移譲されて下関市立長府博物館へと名称変更され、さらに平成28年(2016)に下関市立歴史博物館に改められている。そして、同年11月18日に功山寺の東側へ移転開館した。
展示内容からすると、博物館というより歴史資料館という感じで、中世からの権力者による沙汰状や、古地図の展示が多く、後にそれが歴史博物館という館名に反映されたようだ。また、訪れた当時は、長府藩歴代藩主の紹介や、長府藩に関連する焼き物、絵画などの美術品の展示物も多かったのも特徴で、中には、幕末に使われた砲台等も展示されており、狭いながらも整理されていて見やすい展示内容となっていた。
ちみなに、訪れた当時の建物は、東洋式鉄筋コンクリート造の躯体に石貼りの外観で、功山寺仏殿に似せた二重の和風屋根を乗せるというデザインで、長府博物館本館として国の有形文化財に登録されており、現在も健在であるようだ。
最終訪問日:2002/12/7
元が尊攘堂という性格ですから、博物館と呼びつつも、歴史的な遺物の展示が多く、訪れた時も、ほぼ歴史博物館やなと思いながら見学してました。
これは、多くの人が思ってたんでしょうね。
実態に即したように、歴史博物館に改称されました。