Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

功山寺

 功山寺は、正式には金山功山寺といい、千手観音菩薩を本尊とする。中国三十三観音霊場の第十九番札となっており、鎌倉末期の嘉歴2年(1327)に虚庵玄寂によって創建され、当初は長福寺という名称で、開山当時は臨済宗であった。

 創建以降、後醍醐天皇足利尊氏・直冬兄弟など、時の権力者から保護を受け、長門守護の厚東氏を滅ぼして中国地方で勢力を拡大した大内氏にも保護されている。

 室町時代から戦国時代に掛けて、巨大な勢力を誇ったその大内氏であったが、義隆の代の天文20年(1551)に、重臣陶隆房(晴賢)の謀叛によって嫡流が絶えてしまう。これが俗にいう大寧寺の変であるが、晴賢によって新たに擁立された大内義長も安泰ではなく、同24年(1555)の厳島の合戦で毛利元就に晴賢が敗れたことにより、軍事面での大黒柱を失い、やがて弘治3年(1557)には毛利軍が山口に迫って来る。

功山寺の国宝の仏殿右手奥にある毛利家墓所

 義長は、情勢の悪化を受けて山口での防戦の不利を悟り、実家の豊後大友氏を頼ろうとしたのだが、馬関海峡を封鎖されて渡ることができず、やむを得ず且山城に籠城した。

 しかし、援軍も無いまま先の見えない戦いを続けることはできず、義長の助命を条件に開城したものの、元就の策略によって義長はこの寺に軟禁され、その翌日に自刃させられてしまう。大内氏は、皮肉にも自らが保護した寺で、その終焉を迎えたのであった。

 この時に義長が自刃したのは、現在国宝となっている仏殿と推定され、今でもその裏手には、義長主従のものと見られる墓が残っている。

 大内氏が滅んだ後、寺はしばらく荒廃していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に入部した長府5万石の祖毛利秀元は、慶長7年(1602)に父元清の霊を祀って再興し、笑山寺と名付け、この時に宗旨も曹洞宗へと変えた。そして、この元秀の没後、その号を採って慶安3年(1650)に功山寺と改名し、以降は長府毛利家の菩提寺となっている。

功山寺に建てられた高杉晋作挙兵の騎馬像

 その後、江戸時代末期には、元治元年(1864)7月19日の禁門の政変で失脚し、俗に七卿落ちと呼ばれる都落ちをした三条実美ら五卿がこの寺に匿われた。そして、高杉晋作がその五卿に拝謁し、俗論党打倒の兵を挙げたという、功山寺挙兵の舞台ともなっている。時代の節目節目に、表舞台に登場する寺院と言えるだろうか。

 長い階段を登って巨大な楼門をくぐると、まず正面に、寺の創建より早い元応2年(1320)建立の国宝の仏殿が見え、その慎ましいながらも重厚な存在感が目を引く。そしてその脇には、大内義長の墓や、長府毛利家の墓所があり、左手には隣接して長府博物館があるなど、寺の持つ歴史の深さが感じられた。

 このほか、境内には功山寺で挙兵した高杉晋作の像もあり、現在の落ち着いた境内と違う当時の逼迫した状況が想像される。義長の自刃といい、そのような血生臭い事件も、功山寺の歴史の明確な一部ということなのだろう。

 

最終訪問日:2002/12/7

 

 

功山寺の挙兵があったことで、幕末史では大変有名な寺院ですが、義長自刃の地というのは、現地で初めて知りました。

義長の悲哀に満ちた最期と、晋作の勇壮なる挙兵。

同じ寺での出来事ですが、色々な歴史の顔がありますね。