Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

垂水城

 垂水城が最初に史料に見えるのは、平安時代で、宇佐八幡宮の留守職として九州に下向した藤原教清が、宇佐で子舜清を儲け、その舜清が宇佐から垂水に入部して保安元年(1120)に築いたと伝わる。舜清は同じく八幡宮の社人であった執印行賢の娘を娶った縁で、後に行賢から蒲生と吉田を譲られて蒲生に移り、蒲生氏の祖となった。

 ちなみに、この垂水城の崖下の層から清水が流れ出し、その様子から垂水の地名が興ったと伝わることから、垂水城は垂水発祥の地と言えるだろう。またその清水は、殿様水と呼ばれた。

 室町時代の垂水は、応永19年(1412)に伊地知季豊が下大隅を賜り、以降、垂水一帯は伊地知氏の所領となるのだが、これは、季豊の祖父季随が、尊氏から嫌疑を受けた際、親しくしていた島津貞久・氏久父子の取り成しによって赦されたことから、以降、氏久に付き従い、大隅に下向したことによる。季随は、後に観応2年(1351)の足利直冬との戦いで、氏久の身代わりとなって討死し、季豊やその子孫も島津本宗家の家老を務めるなど、忠義に厚い一族であった。

 このように、垂水一帯は伊地知氏の支配となったわけだが、季豊は垂水本城を築いて本拠にしたと伝わることから、垂水城はその支城として機能していたようだ。

 時代が下り、戦国時代の9代重興の代になると、島津本宗家の家老を務めていた父重武とは違い、肝付氏らと共に反島津の旗幟を鮮明にして活動した。そして、元亀2年(1571)には、海路鹿児島を襲うなどしている。

 しかし、反島津連合の一角であった禰寝重長が天正元年(1573)に寝返ると、防衛ラインであった早崎城と牛根城を巡る熾烈な戦いが行われ、やがて天正2年(1574)1月に牛根城で1年以上籠城していた肝付家臣安楽兼寛が降伏に追い込まれた。これにより、重興は抗戦の不利を悟り、剃髪して島津義久に全面降伏している。

 討伐後、重興は垂水本城のみを安堵され、この垂水城には、島津氏の軍配者として知られる川田義朗や、貴久の弟忠将の子で義久の従兄弟にあたる以久が入部した。

 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、義久の甥にあたる島津豊久が、義久の弟義弘を護って壮絶な討死をするのだが、豊久の領していた佐土原が、天領を経て同8年(1603)に島津氏に返還されると、垂水を領していた以久が入部することとなる。この時、以久の嫡男彰久はすでに没していたため、垂水城は嫡孫の久信が引き継ぎ、慶長9年12月(1605.2)に入部したという。以降、久信の系統は、垂水島津家と呼ばれた。

 ただ、久信が垂水城に在城した期間は短く、久信は慶長16年(1611)に林之城を築いて移ったため、廃城になったと見られる。ちなみに、垂水には前出の垂水本城や林之城のほか、高城、猿ヶ城、下水城など、城の字の付く地名が多い。

 訪れた時は、国道220号線沿いを中心に城の案内を探したが、垂水城のほか、本城や高城など城と関連する地名の辺りにも案内板の類は発見できなかった。後で調べてみると、国道沿いには古いながら標柱が建っていたようで、見落としたらしい。

 

最終訪問日:2001/11/6

 

 

今でこそお城探しもスマホのお陰で簡単ですが、当時は縮尺のでっかい地図で地名を頼りに探してました。

なので、この垂水城のような標柱見落としが時々発生してしまうんですよね。

遠いお城ですが、その内リベンジしたいものです。