Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

御前崎

 南の遠州灘と東の駿河湾を分かつ岬。岬の南側は、静岡県の最南端となっている。

 御前崎の名は、平安時代にこの場所にあった、白羽官牧という官営の馬牧場が元になったと伝わっており、その官牧に因んで一帯が御厩崎と呼ばれ、さらに御前崎に転じたという。そのほかにも、船で運ばれていた馬90頭が遭難し、1頭を除いて御前岩になったという伝説から、その岩の前の岬ということで御前崎になったという説などがある。

 ちなみに、この伝説で生き残った1頭の馬が辿り着いた場所に建立されたのが、今の駒形神社であるという。どちらにせよ、御前崎は馬と関わりの深い地名のようだ。

 御前崎を形成する御前崎台地は、海成砂礫層が上に乗る隆起海食台で、波によって侵食された海食台に、海流や風によって砂礫層が蓄積され、後に地震活動によって隆起したという地形である。この自然の営みは現在も続いており、遠州灘側には厚い砂丘が形成され、海亀の産卵地としても有名だ。

御前埼灯台から海蝕台が見える御前崎台地の海岸と水平線

 御前崎の近辺は、御前岩の伝説にもあるように海の難所で、暗礁が多く存在する海域である。御前崎で栽培されているさつま芋も、明和3年(1766)に薩摩藩の御用船が遭難した際、当地の大澤権右衛門が船員を助けた事がきっかけで、その感謝の印として種芋と栽培法を伝授され、広まったという。

 このような難所であったため、江戸幕府寛永12年(1635)から灯明台を設けていたが、近代に入って光の到達距離が長い洋式灯台建設の必要性が高まり、2年もの工期を費やして岬の南側に灯台を建設し、明治7年(1874)5月1日に初点灯した。

 この御前埼灯台は、灯塔がレンガ造りの大型灯台で、北緯34度35分45秒、東経138度13分33秒に位置し、その歴史の古さからAランクの保存灯台となっている。

御前埼灯台前景

 現在の御前崎一帯には、御前崎ケープパークや人口海浜のマリンパーク御前崎といったゾーンが整備され、マリンリゾートのエリアとなっており、観光やリゾートで訪れる人も多い。また、目の前の海の幸を利用した海鮮料理や、強い風を利用したウインドサーフィンなど、地の利を生かした観光が盛んである。

 訪れた日も、車で来ている観光客はもちろんのこと、自分と同じくツーリングで来ている人も多く、御前埼灯台では駐車場がほぼ満車で、止める所に苦労したほどだった。また、灯台からの御前崎台地の眺めは、他の灯台からの、いかにも先端といった眺めとは違った趣があり、お勧めである。

御前埼灯台解説板

 

最終訪問日:2016/5/22

 

 

地図を見ると、岬の北側がリゾートエリアの感じで、灯台周辺はそれほど観光客が多くないだろうとと思っていたんですが、訪れたのが日曜というのもあってか、予想以上に人がぞろぞろといました。

灯台の駐車場がほぼ満車というのも、びっくりしましたね。

やっぱり先っぽの魅力は侮れません!

 

大崩海岸

 名が示すように、約4kmに渡って断崖絶壁がそのまま海に落ち込み、脆い岩質によって崖崩れが頻繁に起こる海岸。

 大崩海岸一帯は、高草山や満観峰から続く山塊が直接海に落ち込んでいる場所で、その岩質は、玄武岩や粗面安山岩などの火山岩で構成されているが、これらは、水による冷却で円形や楕円形に冷え固まった岩が固結してできる枕状構造を持つという。つまり、1500万年前頃の中期中新世に海底で噴火した溶岩が、500年前に隆起して高草山を含む一帯の高地となったことを示している。

 また、大崩の名が示すように、地質が脆いのもこの一帯の特徴だろう。ちなみに大崩海岸は、日本地質百選にも選ばれており、研究分野ではその名を冠して、一帯の地層を大崩層群とも呼ぶ。

 大崩海岸付近の交通としては、古代こそ海岸近傍の日本坂峠に東海道が通っていたが、平安時代以降は内陸部の宇津ノ谷峠を通るようになり、主街道からは外れた。ただ、大崩海岸そのものにも、明治期までは海岸沿いを歩くだけの浜があり、人が往来していたという。

大崩海岸の断崖と緑が浸食するかつての国道

 その後、明治時代の交通網整備の際、国道1号線東海道を踏襲したが、東海道本線日本坂経由のルートが採られ、大崩海岸のすぐ内陸部に石部トンネルと磯浜トンネルを掘り、その間を繋ぐ部分は大崩海岸の防波堤上に線路が施設された。

 しかし、この区間は、後に弾丸列車計画で現在の新幹線が使っている日本坂トンネルが掘られたことによって付け替えられ、更に新幹線開通で石部トンネルと磯浜トンネルが繋げられたため、今は海岸を通らずに直通となっている。

 ちなみに、この旧石部トンネルの焼津側口が昭和23年(1948)のアイオン台風で崩壊しており、その遺物が一部で名物となっているようだ。

 一方、沿岸道路の方は、最初は県道として整備され、後に国道150号線になったが、土砂崩れや地盤崩壊が頻発し、何度も改修工事が施された。さらに、昭和46年(1971)には、犠牲者を伴う大規模な土砂崩れによって復旧の見通しが立たなくなり、その区間海上を迂回する橋に付け替えられている。

道路決壊によって通行止めとなっていた先の区間海上橋から眺める

 現在は、昭和53年(1978)に開通した静岡バイパス国道150号線となったため、再び県道となり、生活道路の機能を果たしているようだ。

 訪れた時は、道路決壊により通行止ということで、全線を走れなかったが、大規模な土砂崩れによって海上橋に付け替えられている区間と、旧東海道線のトンネル出口は見ることができた。

 崖を目の前にすると、見れば見るほど崖そのものであり、そんな場所に道路や鉄道を通すのは無茶な挑戦であったかと思ってしまうほど、その威圧感に圧倒される場所である。しかし、人間の技術というのも巨大な自然の前ではまだまだ歯が立たないという畏怖を感じる一方で、海上橋の出っ張り方を利用して橋の上から釣り糸を垂らす人々を見ると、人間というのはしたたかで強いなとも感じる場所だった。

 

最終訪問日:2016/5/22

 

 

堤防ではなく道路が決壊というのは、なかなか見ることができない衝撃の字面でした。

崖を見上げると、こりゃ自然には敵わんよな、というのが実感できます。

 

石廊崎

石廊崎から見える水平線と石廊埼灯台

 伊豆半島の突端の岬。突端に建つ石廊埼灯台の経緯度は、北緯34度36分10秒、東経138度50分43秒である。

 太平洋に突き出した伊豆半島の先端ということで、この石廊崎を境に海の名が変わり、西側は御前崎と結んだ直線より陸地側を駿河湾、東側を相模灘と呼ぶ。また、目の前を黒潮が流れている影響か、冬でも暖かく、平均風速も秒速4m~5m程度と、海に突き出している岬としては比較的穏やかな気候と言えるだろう。

 岬の名は、一般にはイロウザキであるが、灯台の名は石廊埼と埼の字が使われ、読みもイロウサキと濁らない読み方である。この灯台は、明治4年(1871)に建てられ、旧暦の8月21日に点灯された。当初は石室埼灯台の名称で、木造の八角形、高さは6.1mだったという。だが、この初代の灯台は、昭和7年(1932)に暴風で大破してしまったため、翌年に現在の高さ約11.4mのコンクリート製の2代目が建てられた。

石廊埼灯台の解説板

 現在の石廊崎は、昭和40年代から岬の観光スポットとなっていた石廊崎ジャングルパークが閉園となっており、今は石廊崎漁港が観光ターミナルとなっているようだ。この漁港の駐車場から石廊崎へと歩いていく人が多いほか、遊覧船も出ており、土産物屋も10軒に満たない程度だが、漁港近辺に集中している。

 石廊崎漁港から岬を歩くと、前半は延々と続く上り坂で、台地上の平坦な道に出てからは、ジャングルパークの廃墟を右手に眺めつつ、石廊崎測候所、石廊埼灯台石室神社へと道が続いていく。この前半の坂道はなかなかきついが、ジャングルパークの駐車場も利用できるとのことなので、こちらからだと上り坂が少ないらしい。

 石室神社の先には、ぽつんとある熊野神社の祠と水平線の続く眺望が広がっている。ここまで来ると、流石にかなりの果て感があり、伊豆半島に来たならば、見ておきたい景色と言えるだろう。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

バイク乗りの宿痾として、先っぽには行かずにいられないというのがあるんですが、この石廊崎も、その到達感を満たしてくれる場所ですね。

岬への道中のワインディング具合も含めて、かなり満足の行く岬でした。

 

駿河健康ランド

 駿河湾に面する海岸沿いに建つ健康ランド。平成14年(2002)4月21日にオープンした。

 健康ランドではあるが、太古の地層から汲み上げた駿河太古の湯という温泉があり、露天風呂には源泉そのまま、黄鉄風呂や炭酸風呂には成分を加えて供給している。

 このほか、各種の泡風呂はもちろん、歩行浴槽や打たせ湯、さらに高温と低温のサウナがそれぞれ数種ずつあるなど、この辺りは健康ランドらしい豊富さと言えるだろうか。また、男女の浴室の間にバーデゾーンという水着着用のエリアがあり、家族で楽しむこともできるようになっている。

 温泉の泉質は、カルシウム・マグネシウム-塩化物泉で、無色透明であり、舐めると苦味があった。湧出温度は16.3℃で、中性の冷鉱泉であり、温度はともかく、泉質的には海を隔てて向かい合う伊豆半島の諸温泉に近い。

 特筆すべきは、溶融物質が24g以上もあることで、並の温泉とは桁が1つほど違っており、非常に多くの成分を含んだ温泉である。

 全国にあった健康ランドが、より手軽で入浴料の安いスーパー銭湯に取って代わられる中、仮眠室ではない通常の宿泊施設を備えた健康ランドとして、ひと味違った戦略を採っており、従来のものの発展型の健康ランドと言えるだろうか。実際に、訪れた日は土曜というのもあって、食事にかなりの待ち時間があるなど、非常に盛況だった。

駿河健康ランドからの日の出の眺め

 

最終訪問日:2018/5/14

 

 

神戸から非常に遠いんですが、複数回利用しているという、個人的には非常に有り難い健康ランドです。

シングルルームはほぼ寝るだけの機能という広さで、レクリエーションやリラクゼーションは部屋ではなく館の設備で賄うという、健康ランドらしい割り切り方が好きですね。

おまけに、駐車場が立体駐車場で雨が避けられることが、バイク乗りには大きなポイント。

自分のように、部屋は布団で寝られればそれでいい的な一人旅の人には、もってこいです。

 

伊東温泉

 伊豆半島かの東側から伊豆大島にかけては、非常に活発な火山活動があった場所だが、伊東周辺にはその恩恵として、いくつもの源泉が存在する。このため、一般には伊東温泉と呼ばれてはいるが、伊東温泉郷と呼ぶのがより正確だろう。

 伊東温泉の源泉数や湧出量は相当なもので、資料によって数が違うのだが、源泉数は650から800本、湧出量は毎分3万リットル以上と桁違いで、共に日本の温泉の中では5本の指に入っている。

 伊東市のホームページには、別府温泉、熱海温泉と並んで日本三大温泉郷に数えられているとあり、昭和25年(1950)にこの3都市が国際観光温泉文化都市に定められたのがその由来のようだ。ただ、どうもこの名称はそれほど有名ではないようで、日本三大温泉場の方が通りが良いのかもしれない。

 伊東温泉の開湯は平安時代とされ、伊東温泉郷の中でも最も古いとされる伊東三湯の猪戸ノ湯では、傷ついた猪が湯治していたことから発見されたという伝承が伝わっている。記録上では、貞観18年(876)に藤原資範が利用したことが見え、少なくともこれより以前には開湯されていたようだ。

 江戸時代には、病に臥せっていた3代将軍家光に湯の献上が行われ、家光はみるみる病状を回復したという。これにより、将軍献上の湯として人気となり、江戸時代中期以降は湯治場として多くの庶民が利用した。明治時代には文人もこの温泉を愛し、多くの著名人が訪れている。

 泉質は、源泉の数が多いために共通ではないが、単純泉と塩化物泉が多く、温度は25℃から68℃と、バラつきがあるようだ。ただ、共に刺激の少ない泉質で、湧出量の豊富さから、150軒余りの温泉宿泊施設では、ほとんどが掛け流しになっているという。

 自分が入浴したのは単純泉の温泉だったが、癖の無いさらりとした浴感で、疲れた体にはちょうど良かった。この浴感は、何度も入るのに適しているのかもしれない。伊東の街を歩けば、そこらじゅうと言っていいほど街の外れから市街地、山の上まで温泉宿があるのは圧巻で、さすが日本有数の温泉町である。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

訪れた時は、共同湯10軒の内、七福神にちなんだ浴場が、何故か数が合わないものの8軒あって、スタンプラリーが行われていました。

陽が落ちた後の到着で、早朝に出発したこともあって慌ただしかったので、次は昼間にゆったりと滞在して、外湯巡りをしたいものですね。

 

栞 ~静岡県のお城終了~

静岡県で訪れたお城を作り終えました。

お城の数は、全部で21城。

ここで栞を挟んでおきましょう。

神戸から見ると、静岡県はやっぱり遠い(そして長い!)イメージなんですが、21城も訪問済みというのは、意外と回ってるなという印象です。

パッと見ると、訪れたお城の場所が右に偏っていますね。

そうなんです。

浜松を中心とした静岡県西部は、まだ回れていないんですよね。

長篠や設楽原と共に、いつか回りたいと思ってますが、まだ未実現。

天守閣に登っていない掛川城にももう1度行きたいですし、高天神城横須賀城と、遠江にはまだまだ行きたいお城が目白押しです。

さあ、次は静岡県のお城の以外のスポットへ進みましょう。

 

横地城

 横地氏の居城で、金寿城ともいう。

 横地氏は、八幡太郎源義家庶子家永(家長)が祖といい、永承6年(1151)に安倍氏鎮定の命を帯びて奥州へ赴く父頼義に従った義家が、大雨で見付に滞在した際、在地の相良荘司藤原光頼の娘との間にできた子と伝わる。

 その子は、長じて父から横地の地を拝領し、横地太郎と名乗った。以後、勝間田氏や戸塚氏など庶族を輩出しつつ、3代長宗は保元元年(1156)の保元の乱源義朝に味方し、4代長重は頼朝の挙兵において義経の指揮下にあり、鎌倉時代には御家人となっている。

 元弘元年(1331)からの元弘の乱では、8代長国は幕府方として笠置城攻めに参加しているが、その没後に跡を継いだ長則は、尊氏の軍に投じて上洛し、尊氏の九州落ちにも従った。

 南北朝時代が本格的に始まると、長則は一貫して北朝方として活動し、建武4年(1337)に遠江守護の今川範国に従って井伊氏と戦ったことが見え、その子家長も同様に今川氏と行動を共にしたようで、太平記にも登場している。

横地城の東ノ城は本丸や金寿城とも呼ばれる

 横地城を築城したのはこの家長とされ、将軍家の御供衆務めたほか、同時代の武将としては、範国の子である了俊貞世が九州探題として九州に下った際に付き従った為長なる武将が九州で討死したことが見え、長連なる人物も確認できるが、家長と同一人物であったのか、どういう繋がりであったのかなどは不明のようだ。また、この南北朝時代の末期頃から、横地氏は天野氏としばしば領地問題を抱えたようで、時には武力による衝突もあったとされる。

 15世紀に入ると、遠江守護職は今川氏から斯波氏へと代わるが、遠江今川家の支配は依然として強固で、以降も横地氏は遠江今川家に属したようだ。しかし、長禄3年(1459)からの中遠一揆や、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の余波で、斯波氏と今川氏が激しく争うと、次第に遠江今川家の勢力は衰え、後援として駿河今川家の義忠が本格的に介入するようになってくる。

横地神社の建つ横地城の西ノ城は二ノ丸とも呼ばれる

 こうした中、横地氏は一門勝間田氏と共に今川方として狩野宮内少輔と戦うなどしているが、文明6年(1474)に遠江今川家の貞延が討死したこともあってか、翌年頃には斯波氏に通じ、かつての遠江今川家の本拠見付城を修築して義忠に対抗した。

 ただ、背景の情勢は複雑で、斯波氏自体も東西両陣営に分裂しており、この時期には西軍側の斯波義廉が家臣の離反で孤立化していたため、義忠と対立したのは同じ東軍側の斯波義良(義寛)だったというのには留意が必要である。

 斯波氏に通じた横地氏の主力は、当初は見付城に籠っていたが、義忠が文明7年(1475)か翌年に遠江へ兵を繰り出すと横地城に戻ったようで、この横地城と勝間田氏の本拠勝間田城で攻防があった。この戦いで、横地城は勝間田城と共に落城し、義忠は横地四郎兵衛と勝間田修理亮の首を挙げたが、その帰路に塩買坂で両氏の残党に襲撃され、義忠もまた討死してしまったという。

横地城中ノ城

 ただ、四郎兵衛が当主の秀国だったのか不明な上、系図にはこの頃に没した者がおらず、さらに史料によっては落城しなかったともあり、実際はどうだったのかよくわからない。また、塩買坂も、南西方向の街道筋で帰路の駿府方向とは違うため、義忠は敗走の途中で討たれたとの説すらある。その後も横地氏の活動が見えていることや、義忠敗走説も考えると、この合戦は決定的なものではなかなかったようだ。

 今川宗家では、この義忠の討死によって幼少の嫡子龍王丸の存在が浮き、叔父である小鹿範満の専横を招くのだが、この時、幕府から政所執事伊勢氏の一門である盛時が仲裁のために派遣された。この武将が後の北条早雲で、10年後に再び駿河へ下って範満を討ち、龍王丸改め氏親の家督を確実にしている。

 こうして家督を固めた氏親は、積極的に遠江への進出を図るようになり、横地氏は幾度かの合戦を経て永正年間(1504-21)の初期に領地を失ったといい、恐らく城も落城したのだろう。

横地城鳥瞰図

 その後、残された遺児元国を擁した再興運動も失敗したため、元国は甲斐へ逃れて武田氏に仕えたという。しかしながら、この応仁の乱から領地失陥にかけての辺りは、史料によって年代も含めかなり差異があり、全体的に不鮮明である。

 城は、東郭や東ノ城と呼ばれる金寿山を中心とする本丸の郭群と、西郭とも呼ばれる横地神社一帯の二ノ丸の郭群に分かれ、間に中郭という小郭を設けているが、本丸と二ノ丸が独立的な別城一郭の城と言えるだろうか。

 横地氏の領地失陥の際に廃城になったと見られ、その頃の中世的な色が濃い城で、非常に切り立った崖を持つ峰筋を削平して築かれており、谷筋から攻め上がるのはほぼ不可能ではないかと思われるほどの要害である。特に中郭の北側近辺の谷筋は、目を見張るほどの急峻さだった。

 本丸は、最高地から北側に落差を持ちつつ2段を重ね、井戸のある郭からは堀切を介して北西方向に高低無く郭を重ねており、下草はあるものの、堀切や帯郭などといった構造を確認することができる。

横地城説明板

 西の二ノ丸は反対に、最高地から南へ階段のように幾段も郭を重ね、各段に土塁や空堀が設けられていた。二ノ丸の最高地となる横地神社社殿の背後は崖となっていたが、案内図ではこの北側や東側にも峰筋に沿って段郭が伸びていたようで、また、西方向は明確に削平地が確認でき、金玉落しや膝つき谷と呼ばれる方向へも郭群が延びていたことが判る。

 この2つの中間にある中郭は、主に倉庫があったようだが、こちらも南面に幾段か重ねられており、全体的に見て、非常に重厚な構えの城と言えるだろうか。

 城の南側に案内板や駐車場が用意されているが、車がすれ違えないほど細い急坂を抜ければ、横地神社の南側の千畳敷と呼ばれる広い削平地に車を置く事ができる。一帯は、ハイキングコースにもなっているようで、各場所の案内がよく整備されて散策しやすく、斯波氏を示す武兵衛原や殿ヶ谷、御堂谷など、想像力を膨らませるきっかけとなる地名も多い。

 一帯は、城館跡を含めて国の史跡にも指定されており、廃城から数十年しか経っていないような雰囲気さえ漂うような、想像以上に旧態をよく残した良い城だった。

西ノ城に構えられた段には土塁と堀が設けられていた

 

最終訪問日:2016/5/22

 

 

横地城には、本文にあるように、金玉落としと膝つき谷という場所があります。

パッと案内板として視界に飛び込んでくるので、字面が衝撃的なんですが、これは膝をついて谷底に待機している兵に向かって金の玉を落とし、兵はそれを探しながら崖を駆け上がってくるという訓練をした場所とのこと。

語源を知ればなるほどなんですが、初見ではびっくりしますよね笑