Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

三木城

別所長治の像と伝天守

 東播磨8郡を支配した別所氏の居城で、播磨の三大名城のひとつ。釜山城ともいい、干殺しと称される秀吉の三木合戦で有名。

 別所氏は播磨守護赤松氏の支流だが、系図に異同があり、赤松氏を興隆させた円心則村の甥敦光が最初とも、円心の6代の祖で平安末期の季則の子頼清が最初で、円心の弟敦光が別所の名跡を継いだともいう。ともかく、円心に近い敦光なる人物が直接の祖なのは間違いないようだが、南北朝時代は赤松家中での序列がそれほど高くなく、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で没落した後に復興した赤松家において、ようやく頭角を現した。

 その当時の当主は則治で、赤松家を再興した政則の近臣として活躍し、特に文明15年(1483)の真弓峠での山名氏との戦いに敗れて実権を失った頃の政則によく仕えたという。そして、政則の復権後、この功によって東播磨守護代に上り詰め、明応元年(1492)に三木城を築いたとされる。また、一説には、釜山城築城自体は文明3年(1471)で、則治がそれを改修したともいう。

 則治が出た後、孫の就治(村治)も武勇に秀でた武将で、依藤氏との対立から享禄3年(1530)に一度は三木城を浦上勢に落とされたものの、後に復帰し、更に勢力を伸ばした。その頃、守護代の浦上氏と対立して衰えた赤松氏は、天文7年(1538)頃の尼子氏の播磨侵入に対して無力で、この時、三木城も尼子氏の攻撃に晒されたが、落城は免れ、別所氏は事実上独立することとなる。

三木城本丸井戸

 しかし、中央で絶頂期を迎えていた三好氏が、別所氏と争っていた有馬氏の要請で同23年(1554)に東播磨へ侵入して7つの支城を抜き、更に翌年には当主長慶自ら播磨に出陣して来ると、三木城は落とされなかったものの、三好氏に服属せざるを得なくなった。これ以降は、三好氏の戦いに駆り出されつつも、戦国大名としての地位を次第に確立し、子の安治も父に劣らず勢力拡大に努めたようだ。

 安治の早世によって家を継いだ子の長治は、叔父の吉親や重棟に補佐され、信長の入京と三好氏の没落による政治的な空白を衝いて東播に確固たる勢力を築き、織田家が西に勢力を伸ばしてきた天正5年(1577)には早くも誼を通じている。だが、秀吉が播州豪族の協力を得て短期間で播磨を平定した後、加古川での軍議で、長治の名代であった吉親の意見が無下に退けられたことから反発し、織田方から離反した。

 この離反劇に関しては、それまでの協力体勢を全く無にしてしまうには、意見云々が理由ではちょっと弱いと思われる。現実的に考えると、秀吉の播州平定の功に対する過剰な意識や、婚姻関係にあった丹波の波多野氏が織田家明智光秀と交戦中だったという要素があり、その上で、吉親の派閥に毛利家からの調略があったのではなかろうか。

 その一方で、吉親の弟重棟は秀吉方となったのだが、家臣への影響力は若年の当主より吉親のほうが強く、吉親の強い主張によって別所家の方針が転換され、それに反対した重棟は秀吉方に与したと考えられる。もう少し深く読めば、血が絶えないよう親族を敵方に参陣させるというのはよく使われる手で、重棟がそれであると考えることもできるが、これはさすがに深く読みすぎだろうか。ともかく、巷間に伝わっている吉親の織田家に対する憎しみの言動は感情的過ぎており、一考の余地があると思われる。

三木城本丸から城下があった三木旧市街と美濃川

 いずれにしろ、この播州最大勢力の方針転換は、東播の中小豪族の殆どが毛利方へ靡くという結果をもたらした。そして、毛利氏による上月城の落城と尼子一党の滅亡、荒木村重の謀反など、織田家にとって良くない一連の流れの端緒となったのである。

 三木合戦は、天正6年(1578)の3月に開始されたが、秀吉は、この三木城が堅固で早期に落ちない事を知ると、東播に散在する野口城、志方城、神吉城、高砂城といった支城網を潰しにかかった。一方、別所氏を救援する毛利氏も、織田方の前線である上月城を屠ると、加古川の水運、荒木村重の花隈城から丹生山、淡河城を経るルート、魚住城から北上するルートなどから三木城へ糧食を運んだ。

 しかし、織田軍の地道な支城潰しによって支城網が寸断されると、補給線を絶たれた三木城は完全に孤立し、次第に飢えの影響が出てくるようになる。城兵も、平井山の秀吉本陣を急襲したり兵糧補給の際に谷大膳を襲撃して討ち取るなどしたが、これらの戦いにも結局は敗れて状況を打開するには至らなかった。そして、ついに天正8年(1580)正月、城主長治や弟友之、叔父吉親など一族が城兵の命と引き換えに切腹する。こうして、22ヶ月という籠城戦に終止符が打たれた。

三木城縄張図

 戦後、播磨を与えられた秀吉は、この三木城を本拠にしようとしたが、軍師黒田孝高が交易を考えて海を持つ城にすべきと主張したため、飾磨津を使える姫路城に本拠を決めたという。本拠とならなかった三木城は、杉原家次の預かりを経て前野長康や中川秀政、その弟秀成が封じられ、豊臣政権末期には再び豊岡にいた家次が城代として城を預かっている。また、城主が変遷していく過程で天守が造営され、次第に近世城郭の姿を整えていったようだ。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、播磨一国が池田輝政に与えられた為、池田家臣伊木忠次が城代となったが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、その用材は解体されて明石城に用いられた。

 三木城は、西の眼下に美嚢川、北と東はその支流である二位谷川が廻って堀の役目を果たし、その更に北に志染川、南の後背には八幡山を擁する釜山に築かれた平山城である。現在の上の丸公園が本丸跡で、かんかん井戸という大きな井戸が残っているのみだが、古図と照らし合わせると、長治辞世の句碑があるところが櫓跡、忠魂碑のあるところが天守跡だろうか。ただし、現地には句碑がある小山に天守跡の碑があり、古図とはやや相違がある。

三木城の一角を成す鷹尾山城の説明板

 本丸跡の南にある図書館や美術館周辺は西ノ丸、その東に続く住宅地一帯が二ノ丸、東ノ丸、新城という区域だが、案内板によっては西ノ丸、東ノ丸、新城といった郭全部で二ノ丸としているようだ。本丸のある台地の下には、西に中嶋丸、北東に三ノ丸を配し、二位谷川に沿って南へ平山丸、今の市役所一帯である鷹ノ尾と続く。

 8千人が籠ったというだけあって相当大きな規模で、南の城外にある八幡山にも、後背を固める為に出城が配されていた。ちなみに、市役所や大宮八幡宮から八幡山へ遊歩道が延びているが、大宮八幡宮からの道のほうがよく自然を残しており、当時の雰囲気に近いようだ。また、鷹ノ尾には土塁などの遺構が残っており、往時の雰囲気を感じられるだろう。

 公園にある長治辞世の句碑には、「今はたゞ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」とあり、長治の清廉な人柄を句に写し取ったようである。また、市内には、羽柴秀吉の軍師として戦い、戦中に病没した竹中半兵衛重治の墓や、秀吉が本陣を置いた平井山の陣跡などもあり、周辺を1日掛けて散策して巡るのもいいかもしれない。

鷹尾山城の削平地と土塁

 

最終訪問日:2023/3/12

 

 

三木城は、生まれて初めて自分自身が行くと決めて訪れた最初のお城です。

そういうわけで、2番目の記事に選びました。

かれこれ四半世紀以上昔ですが、三木鉄道が健在の頃、加古川線三木鉄道を乗り継いでお城まで行ったことを断片的に覚えています。

懐かしい。

本丸にあった上の丸保育園も閉園し、発掘調査と史跡公園化を徐々に進めていくようですので、先々が楽しみですね。