Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

音羽城

遊具のある公園となっている音羽城本丸

 中世蒲生氏の居城で、オトワと読む。蒲生貞秀によって応仁元年(1467)からの応仁の乱の頃に築城されたとも、その父秀綱が15世紀初頭の応永年間(1394-1428)に築いたともいわれ、鎌倉幕府草創期の築城という伝承もある。

 蒲生氏は、古代に見える蒲生稲置の末裔ともいわれるが、その系図では、近江国田原に住んで田原藤太と名乗った藤原秀郷の、その次男の流れである惟俊が蒲生郡に住んで名字にしたのが最初という。惟俊の子俊賢は源頼朝に、そのさらに6代の子孫秀朝は足利尊氏に従って功を挙げ、蒲生氏は近江国日野周辺に勢力を培った。

 音羽城を居城としていた頃の蒲生氏は、近江守護であった佐々木六角氏の明確な家臣ではなかったものの、当主貞秀は事あるごとに六角高頼から頼られる存在であったという。明応5年(1496)の戦いでは、斎藤妙純と京極高清の連合軍をこの城で退け、文亀3年(1503)の伊庭の乱では、観音寺城を逃れた高頼を城に迎え、守護代伊庭貞隆とこれを支援する細川政元の家臣赤沢朝経の軍勢を相手に城を支えた。

 この貞秀には3人の子がおり、それぞれ嫡子秀行は将軍家へ、次男高郷は六角氏に、三男秀順は管領細川氏にそれぞれ仕えさせていたが、嫡男秀行は貞秀より先立って早世してしまい、貞秀の死後、その跡目は嫡孫である秀紀が継いでいる。しかし、貞秀の死から8年経った大永2年(1522)7月、高頼の次男定頼の支援を受けた高郷が兵を挙げ、燻っていた家督争いが現実のものとなった。定頼の支援には、六角家臣となっていた高郷が家督を継げば、蒲生氏を家臣として組み込めるという思惑もあったのだろう。

 秀紀は8ヶ月の籠城戦を戦ったが、高郷と定頼の連合軍は、翌年3月に音羽城を降伏開城させた。これにより、蒲生氏嫡流の没落と共に城は廃城となり、高郷の系統は蒲生家惣領となって日野城に本拠を移したという。ちなみに、この高郷の曾孫が信長や秀吉に仕えて名を残す氏郷である。

 城がある山は、峰の突端部にあたり、比高は100m未満で高くはないが、山頂付近と中腹に遺構があり、眼下に日野川の崖と背後に宝殿ヶ岳を擁した要害であった。構造としては、大きな平坦部を持つ本丸と二ノ丸、その2郭の南にあった南丸の、計3郭を中心とする城である。現地を歩くと、主郭部周辺に小郭が確認され、土塁や空堀などの遺構もかなりよく残っており、中世的な戦国時代初期の山城としては規模はそこそこ大きかったようだ。ただ、後世の改変の影響が大きく、主郭部の境界が不明確であったりと、現在の地形をそのまま受け取るわけにはいかないらしい。

 現在は城跡一帯が公園となっているが、付近の道路は交通量も少なく、訪れた時は誰も公園にいなかった。おかげでゆっくりと散策できたのだが、人がいない割によく整備されており、もしかしたら休日には家族連れが結構訪れたりするのかもしれない。

 

最終訪問日:2001/8/27

 

 

古城というよりは、のどかな公園という感じになっている城でした。

戦国時代に氏郷を輩出した蒲生氏は、ここが飛躍の城になったのかと、感慨深かったですね。