Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

八幡堀

八幡堀と近江八幡の街並み

 近江八幡は、天正13年(1585)にこの地へ入部した豊臣秀吉の甥秀次が、城下町を建設する際に、琵琶湖との水運の向上を図って掘削した運河で、全長は約6km。

 群雄割拠の戦国時代から変わり、合戦が少なくなった安土桃山時代の風潮を示すように、軍事要塞としての城下町よりも、経済都市としての城下町を目指して発展しやすいように碁盤の目に町割りがされており、今でもそれが市街地に濃厚に残っている。

 秀次と秀吉は、秀吉に実子の秀頼が生まれたことによって不和となり、秀次は真偽不明の罪を負わされ、所領没収の末に切腹を命じられたのだが、その居城であった八幡城も、秀次の色を消すためか、後に徹底的に破壊されたようだ。城下町としての近江八幡はここで終わってしまうのだが、もともと秀吉幕下に近江出身の優秀な経済官僚が多かったように、近江には経済学ともいうべき教養を持った人間が多く、そのような人々によって、この町は近江商人の町として近世以降も繁栄することができた。治世は短かったが、秀次の遺産となった町割りが生きたのだろう。

八幡堀に架かる浮舟橋

 八幡堀は、琵琶湖の水運を利用するために町まで引かれていた運河で、江戸時代にはこの水運が町の物流と繁栄を支えたのだが、明治維新後に西洋文明が入ってきた事により、鉄道や大型船などの導入で国内の流通事情が変化し、江戸時代に繁栄していた全国の国内港や運河と同じように、次第に衰退していった。また、産業が工業化していく中で、長期的で重厚長大な投資が求められるようになったために、より商業的傾向の強かった近江商人自体も多くが没落して行き、高度成長時代には支え手を失った町は寂れ、八幡堀も腐臭を放つ川になっていたという。

 このような状態で、埋め立てて道でも造った方が有用との意見も出る中、町の遺産を残そうと有志が堀を整備し直し、時間を掛けて現在のような昔の佇まいを残す観光資源としての堀として再生することに成功したのである。街中の堀のほか、近江八幡の観光名物のひとつである水郷めぐりも、町の中にまでは入れないものの、琵琶湖から町に引かれた運河を利用した遊覧であり、もはや八幡堀全体が町に無くてはならないものになったと言えるだろう。

 

最終訪問日:2002/3/16

 

 

古い商都には、運河というのものが付きものですが、水路のある街というのは、独特の風情がありますね。

船で街中まで入ることができたら尚良いのですが、そこは残念!