慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、事実上、西軍の現地総司令官だった石田三成が陣を敷いた場所。歴史を少し知っている人間なら、笹尾山の方が通りが良いかもしれない。現地の碑に従い、名前を石田三成陣地跡としたが、陣所跡や陣跡、笹尾山石田三成陣跡とも呼ばれる。
通説に従うと、三成は、この笹尾山の麓に猛将島左近清興(勝猛)を、中腹に蒲生郷舎を配して、それぞれに馬防柵を作らせ、6千余の兵で細川忠興や黒田長政の1万以上の兵と相対し、緒戦では寡兵ながら西軍をよく支えたという。
だが、小早川秀秋の裏切りと、連鎖的に発生した赤座直保や小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の寝返りで大谷吉継の軍勢が壊滅すると、宇喜多秀家の軍や小西行長の軍も相次いで崩れ、三成の軍勢においても、清興の隊と郷舎の隊が壊滅してしまい、三成はすぐ脇を走る北国脇往還に沿って退却し、伊吹山中に身を隠すこととなる。しかし、1週間後に体調を崩して弱っていたところを捕縛され、京都の六条河原で斬首された。
東軍を囲むように鶴翼に広がった西軍の陣形の中で、一番北に位置するのが三成の陣があるこの笹尾山で、笹尾山自体はそれほど高くないのだが、伊吹山系に繋がる高地でもあり、ここから関ヶ原の戦場全体がよく見渡せる。
だが、関ヶ原全体が見渡せるだけに、松尾山の小早川秀秋や、南宮山の毛利軍が動けばすぐに決着がつくというのが一目瞭然であったはずで、三成にとっては相当悔しかったと思われ、また、動かないことに焦りもしただろう。ここに登れば、その状況がありありと想像でき、三成の心情は察するに余りある。
ただ、関ヶ原の合戦に関しては、有名過ぎる合戦であるが故か、通説に対する検証があまり行われてきていなかったようで、ここにきて新しい学説が出てきているようだ。中には、三成が陣した場所がこの笹尾山ではなかったという説もあるのだが、この辺りは、追加の検証を待ちたいところである。
現在の陣地跡は、木々や草が綺麗に刈られて整備されており、馬防柵も復元され、散策しやすい史跡公園となっていた。駐車場も近くにあり、関ヶ原の全体を掴む上で、お勧めしたい場所である。
最終訪問日:2023/10/16
地元の方も訪れる場所のようで、家族連れの和やかな雰囲気と、はためく大一大万大吉の旗とのギャップが印象的でした。
穏やかな公園を歩きながら、戦国史上でも有数の大兵力戦が行われた戦場を見渡すというのは、なんだか不思議な感覚ですね。