Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

関ヶ原古戦場

 慶長5年(1600)9月15日に、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に担いだ石田三成率いる西軍が激突し、東軍が勝利して江戸幕府創設の端緒となった関ヶ原の合戦の古戦場。

 豊臣政権内では、古くから福島正則に代表される武断派と、石田三成に代表される文治派との対立があったが、緩衝材の役目を果たしていた宿老格の蜂須賀正勝や秀吉の弟秀長が相次いで死去し、秀吉の老いによるバランス感覚の衰退も手伝い、両者の確執は決定的なものとなっていった。

 慶長3年(1598)の秀吉の死後、五大老筆頭の家康は武断派を取り込み、武断派に近い北政所の支持も得、最大の実力者として行動し始める。これに対し、五大老のひとりである前田利家は、公然と家康を批判し、文治派もこれを支持したのだが、両者の和解直後に利家は病死し、子の利長は家康に謀叛の疑いをかけられた末、服従した。

 利家の死後、先鋭化した武断派は、三成の暗殺を試みているが、追い詰められた三成が家康を頼ったことから、家康の仲介で両者は和解し、三成は五奉行の職を辞して佐和山城へと退き、蟄居することとなる。これに危機感を持った文治派は、五大老のひとりである上杉景勝重臣直江兼続と連絡を取り、景勝は、領国会津で軍備の増強を図った。家康は、この景勝の動きに対し、上洛と釈明を要求するのだが、直江状に見られるような強硬な態度を示したため、上杉討伐の軍を発し、これが関ヶ原の合戦へと直接的に繋がって行く。

 この辺りの家康の行動からは、最初から三成がターゲットだったわけではなく、前田家にしろ景勝にしろ、どうにかして政権内に争いを作り出して分裂させるという思惑を持っていたように感じられる。かなり強引にも見えるが、直前に没した秀吉の年齢が家康の頭にあり、時間的余裕が無いという自覚が、もちろん影響したのだろう。

 この後、上杉氏討伐が発出され、家康率いる討伐軍が大坂を去ると、三成は文治派と協力して大坂城に入城して家康を糾弾し、さらに毛利輝元を総大将に迎え、丹後田辺城や伏見城などの東軍諸城の攻撃を開始した。

 一説に、家康が大坂城を空けたのは、三成に挙兵させるためだったとの説もあるのだが、それはともかくとして、これを知った家康は、下野小山で評定を開いて西上を決め、味方の諸将を先に行軍させつつ、上杉軍への備えに次男の結城秀康などを宇都宮に置き、自らは江戸城で後方の足固めと調略に専念している。

関ヶ原の合戦の決戦地碑

 その後、武断派を中心とする東軍の先行隊は、美濃に入って織田秀信岐阜城を落とし、西軍も大垣城を根拠地として東軍の先鋒隊と戦うなど、美濃やその周辺を中心とした動きになる中、いよいよ、家康の三男秀忠率いる部隊が中山道から、家康の部隊は東海道から西上を開始した。

 だが、秀忠の本隊は真田昌幸上田城攻略で苦戦し、これを落とせないばかりか、後日の関ヶ原の本戦にも間に合わない結果となっている。ただ、これには異説として、遅参を理由に秀忠率いる徳川家本隊の兵力を温存し、万が一、関ヶ原で敗れた場合に備えるためだったともいう。

 ようやく美濃に入った家康は、軍議を開き、西軍の根拠地大垣城を無視して佐和山城を攻略し、大坂城へ向かうとの方針を決め、意図的にこの情報を西軍に流した。これを知った三成は、夜襲を主張する諸将を抑え、関ヶ原で迎え討つ方針を示し、夜の間に大垣城を出て関ヶ原へと転じている。

 一般には、この流れは、三成が野戦で決着をつけたい家康の思惑に乗せられたとされているが、戦闘開始時の配置を見る限り、三成にとっても関ヶ原での戦いは想定内だったのではないだろうか。それほど、西軍は地の利を押さえ、圧倒的に有利な陣形を敷いていた。

 両軍の兵力には諸説があり、東軍7万4千対西軍8万4千であったとも、東軍10万4千対西軍8万2千であったともいわれるが、両軍合わせて15万以上の兵力が激突した大きな合戦だったのは間違いない。

 戦闘開始は午前8時頃で、朝霧の晴れる頃に松平忠吉井伊直政が抜け駆けして宇喜多勢へ発砲すると、本来先陣であった福島正則が遅れまじと続き、これに宇喜多勢が応射して開戦した。

 午前中は、配下の島左近清興(勝猛)や蒲生郷舎が奮った三成の軍や、明石全登などを擁する宇喜多秀家の軍、大谷吉継の軍が奮戦し、また、地の利を得たこともあって、参戦兵力の少ない西軍が善戦していたという。だが、南宮山の毛利軍は、麓の吉川経家が進軍しないために動けず、松尾山の小早川秀秋も、三成の上げた狼煙に反応しなかった。また、主戦場から近い島津義弘も、何かと理由をつけて積極的な参戦を断り、不気味に沈黙したままであったという。

関ヶ原古戦場周辺図

 その頃、家康は苦戦気味の東軍全体の士気を高めるため、本陣を桃配山から前線へと移していた。吉川経家小早川秀秋から内応の約束を取り付けていた家康だったが、やがて一向に動かぬ小早川勢に痺れを切らし、松尾山へ向かって銃撃を始めるのである。

 一方、松尾山に陣取る秀秋は、この銃撃まで寝返るかどうか迷っていたという。山を下る方向によって、東軍の脇腹を衝くことも、西軍陣形の片翼を一気に潰せることもできるという、勝利の鍵を握る位置への布陣が、迷いを深くしたのかもしれない。

 しかし、この催促の銃撃で決心が定まり、秀秋は味方であるはずの大谷吉継隊へと雪崩れ込んだ。これに対し、早くから秀秋に疑心を持っていた吉継は、冷静に銃撃を浴びせて侵攻を食い止めたが、隣接する赤座直保小川祐忠朽木元綱脇坂安治の軍勢へ寝返りが連鎖的に波及すると、一気に2方向からの攻撃に晒され、たまらず壊滅に追い込まれてしまった。そして、これを契機として、一気に戦況は東軍有利へ傾き、宇喜多勢、石田勢も劣勢に追い込まれて連鎖的に壊滅し、戦いは東軍の勝利で終結したのである。

 合戦では、奮戦した清興や吉継は討死、もしくは自害し、退却して伊吹山中に逃れた三成や行長も、後に発見されて処刑されてた。だが、島津義弘だけは僅か千足らずの兵で敵中突破し、家康本隊の横をすり抜け、甥豊久や長寿院長淳を失いながらも退却に成功している。この時、義弘を追撃した井伊直政松平忠吉は負傷し、後年の死去の原因になったといわれ、この猛烈な戦いぶりが島津家を減封すらなしに存続させた一因ともなったという。

 関ヶ原の合戦の主戦場は、JR関ヶ原駅の西北一帯で、そのエリアの中には決戦地碑や開戦地碑が建つ。決戦地碑が建てられているのは、石田三成が陣取った笹尾山を目前に控える、関ヶ原の戦場の中で最も激戦が繰り広げられた場所で、三成退却によって勝敗が完全に決した場所でもある。

 関ヶ原自体は、国道21号線中山道と、北国脇往還、伊勢街道のルートを通る国道365号が交差し、今も昔も交通の要衝である事に違いはなく、大軍を集結させ易い上にそれを展開できる野があるという条件は変わっていない。ただ、この決戦地碑のある場所一帯には、のどかな田園風景が広がっており、かつて戦場だったことが嘘のような穏やかさだった。

 

最終訪問日:2023/10/16

 

 

関ヶ原の合戦は、天下分け目と呼ばれるほどの大きな合戦であったが故に、戦いやその前後には、北政所は家康に与したわけではなく中立であったとか、兼続と文治派は連携していなかったとか、輝元がもっと主導的な立場であったとか、色々な学説がありますね。

中には、関ヶ原の合戦は、近くの別の場所で起こったなんてのもあります。

これぼど大きな戦いで、文献も多く残っているだけに、いまだに色々と仮説が出てくるのは、歴史好きとしては興味深いですね。