Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

善光寺

 正しくは、天台宗では定額山善光寺、浄土宗では大本山善光寺という。他の善光寺と区別するために、信濃善光寺信州善光寺とも呼ばれる。天台宗大勧進以下25院と、浄土宗の大本願以下14坊が山内に並存するという珍しい寺院であり、また、他の多くの古刹とは違って女人禁制ではなかったため、女人救済、女人往生の寺とも呼ばれた。

 本尊は、天竺から百済、そして日本へと渡った三国渡来の一光三尊阿弥陀如来像で、絶対秘仏である。そのため、住職ですらその姿を拝めないという。

 縁起に拠れば、本尊の阿弥陀如来像は、娘を阿弥陀如来によって助けられた天竺の月蓋長者によって鋳写されたといい、欣明天皇13年(552)に百済から日本へ伝えられたとされるが、反仏教派であった物部氏によって打ち捨てられてしまい、信濃国司の従者として上洛していた本田善光によって、信濃へ持ち帰られたと伝わる。

巨大な善光寺本堂

 また、大阪の小山善光寺に伝わる話では、善光が宿泊した庵の庵主隆聖法師が祀らせてほしいと頼み、両人が三日三晩に渡って念仏したところ、阿弥陀如来像が2体になったといい、これにより、大阪藤井寺の小山善光寺において日本で最初に本尊として祀られ、次いで現在の飯田市にある元善光寺で、善光の持ち帰った阿弥陀如来像が祀られたともいう。

 ただ、阿弥陀如来を持ち帰ったとされるのは、「扶桑略記」では秦巨勢大夫、「伊呂波字類抄」では若麻績東人(本田善光)としており、当時から複数の伝承があるようだ。

 その後、皇極天皇3年(644)に現在地へと遷座した。縁起に拠れば、皇極天皇がこの世に戻された仏恩に感謝し、勅願によって建立したと伝わる。

 以降、十数回もの火災に遭い、戦国時代には上杉謙信によって越後の浜善光寺、あるいは武田信玄によって甲斐善光寺に遷されたと伝わるなど、本尊は変転に晒されるものの、慶長3年(1598)に本尊が善光寺に戻って以降は、遷座することなく篤く信仰され、江戸時代には善光寺参りがお伊勢参りと共に庶民の間で盛行したという。

重厚な善光寺山門

 現在の本堂は、宝永4年(1707)の落成で、寛延3年(1750)には山門が建てられ、本堂が国宝、山門と経蔵は重要文化財に指定されている。このほか、本尊の分身である前立本尊として数えの7年に1度、つまり丸6年ごとに開帳される金銅阿弥陀如来及両脇侍立像や、釈迦涅槃像、来迎図などが重要文化財に、また、梵鐘が重要美術品になっており、それぞれ文化的価値が非常に高い。

 訪れてみると解るが、本堂が仰ぎ見るほどに巨大で、善光寺参りが盛行した当時、いかに信仰が篤かったのかというのを実感する。また、撞木造という屋根がT字型の特徴的な設計となっており、本堂の周囲を歩いてみると、南面して建つ建物の様子と、東面して建つ建物の様子が全く違い、非常に面白い。

 門前町や各院各坊の脇寺にも雰囲気があり、大寺らしく、善光寺一帯を歩いていると時代が巻き戻されるような圧倒的な雰囲気を持つ寺だった。

 

最終訪問日:2018/5/29

 

 

建物の存在感が半端ないですね。

巨刹の名に相応しいお寺です。

しかし・・・引いたおみくじは凶でした・・・