正式には、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館という。考古学、人類学の学者として精力的に活動した、鳥居龍蔵博士の業績を記念して造られた記念博物館。
博士は、徳島市に生まれ、小学校中退ながら独学で勉強を重ね、20歳の時に上京して東京帝国大学の坪井正五郎に師事し、標本整理係として働きながら、さらに勉強に打ち込んだ。
25歳の時に遼東半島の調査を行って以降、精力的に東アジアの各地に足を運び、調査に写真を持ち込んで貴重な記録を残している。60歳を過ぎても南米を訪れるなど行動は衰えず、太平洋戦争前後は北京の燕京大学の客員教授として中国に在り、帰国後の昭和28年(1953)に死去した。享年82。
博士の死後10年経つ頃、時の徳島県知事は、博士の偉業を称えるため、記念館の建設を計画した。最初、徳島出身で名誉市民でもあったことから、徳島市に建設する予定であったが、予定地が決まらず、晩年の博士が鳴門に暮らしたいと願っていたことから、鳴門海峡を一望できる鳴門市の妙見山に建設地が決まったという。
妙見山は、岡崎城や撫養城と呼ばれる城の跡地であったことから、その歴史にちなんで天守閣様式で建てられ、昭和40年(1965)3月25日に鳥居記念博物館という名で開館した。ちなみに、博士は鳴門市からも名誉市民を授与されている。
その後、開館から年月が経ち、建物の老朽化と耐震性が問題となってきたことから、平成22年(2010)3月31日に閉館した。そして、同年11月3日に、鳥居龍蔵記念博物館という名で、文化の森総合公園内に改めて開館している。
訪れたのは、妙見山にあった鳥居記念博物館時代だったが、博士の貴重な研究成果が広範に展示されており、非常に興味深かった。交通の便が悪い戦前にこれだけの探索をするのは、相当な労力だったと思われ、当時の鳥居博士の研究心がいかに深かったのかを物語っている。
最終訪問日:2004/2/25
妙見山は、鳥居博士が晩年を過ごしたかった鳴門の風景が一望できる場所で、故人の想いを考えると、良い立地でした。
また機会があれば、新しい記念博物館にも行きたいですね。