Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

蓮池城 (土佐)

 土佐七雄と呼ばれる有力国人のひとつ、大平氏の居城。

 蓮池城は、この大平氏が築いたのではなく、平家の有力家人であった近藤家綱が、嘉応2年(1170)に築城したものと伝わる。

 家綱は、地名から蓮池と名乗り、平家に反逆する可能性のあった源希義を討つなどしたが、平家が政権を失ったことにより、家綱は夜須行宗に討たれて滅ぼされ、蓮池城周辺一帯は、藤原秀郷流という御家人藤原国信に与えられた。

 国信は、建久3年(1193)に大平を称して蓮池城を本拠に定め、子孫は、南北朝時代には満良親王に味方し、大高坂の合戦などで南朝方として活動したことが見えるが、四国は比較的早い時期に細川氏の勢力圏となっており、大平氏南朝方の退勢によって細川氏に臣従したものと思われる。

 細川京兆家が守護となった土佐国は、細川遠州家が守護代に任命されたが、その守護代すら在京することが多く、大平氏が又守護代として領国経営を代行することが多かったようだ。その大平氏も、上洛する機会が多く、京で五山の僧や公家などど交わって文化的素養を身に付け、以降の歴代当主もその風雅を受け継いだという。

 応仁元年(1467)からの応仁の乱では、土佐の守護であった細川京兆家の動員により、土佐守護代を務めた細川遠州家の勝益と共に当主の国雄が上洛し、活動したことが見える。

蓮池城本丸跡の広場と城址

 この応仁の乱の期間には、関白をも務めた一条教房が、京の戦乱を避けるのと同時に有名無実化した荘園を取り戻すべく土佐に下向し、土佐一条家の祖となるのだが、これを支援したのも国雄であった。これは、国雄の室が教房夫人の縁者だった事が理由といい、この件からも、大平氏の京での交友関係が窺える。

 だが、この文化的な素養は、戦国大名としてはマイナスに働いた。ともすれば文化的に傾斜してしまうのは他の戦国大名にも見られるが、大平氏の場合も、国雄の晩年から元国にかけて現れたようで、元国は永正5年(1508)に本山茂宗とともに長宗我部兼序を敗死に追い込むなどしてはいるものの、大名としての文弱化は進んだ。

 そして、西から勢力を伸ばしてきた一条氏によって領地を蚕食され、西隣の津野氏と同様に降伏に追い込まれてしまった。これは、天文15年(1546)の元国の時とも子の国興の時ともいう。

 その後の大平氏は、一条氏によって戸波へ移されたといい、蓮池城は一条氏の城番によって守られていたが、弘治3年(1557)に、一条兼定が伊予へ出兵した隙を衝いて本山茂辰が城を奪った。

蓮池城跡のさくら広場に残っている土塁

 兼定は、南伊予の討伐を終えた後、長宗我部氏と本山氏の争いに乗じて永禄3年(1560)に蓮池城の奪回に成功しているが、今度は本山氏を土佐中央部から追った上に屈服させた長宗我部元親が、永禄12年(1569)に弟親貞に命じて蓮池城を経略で陥落させ、親貞がそのまま城主となっている。

 親貞は、一条氏が内政の代となって長宗我部氏の影響下に入った際に中村城へと移り、その後しばらくして病死するが、蓮池城は親貞の移動後もそのまま吉良氏の城として保持されたと見られ、子の親実に継承された。

 その後、天正14年(1586)に元親の嫡男信親が戸次川の合戦で討死した後、親実は四男盛親擁立の動きに反対したため、天正18年(1590)前後に元親に切腹を命じられ、城も廃城になったという。

 現在の蓮池城は、整備されて城山公園となっているが、郭跡をよく残したまま公園化されているようで、城の構造が解り易い。

 後世の改変も多少あったとは思われるが、櫓台と見られる土盛りを持つ最高部の本丸跡から、北と東に2段の郭、南に本丸に次ぐ規模の逆向きのくの字をした郭と、一段下に方形の段があり、土塁も所々に確認できる。また、本丸跡からの視認性が良く、城の構造が上から見てよく解るのも良かった。

 

最終訪問日:2004/9/10

 

 

手持ちの地図に城跡の表示がなく、偶然出てきた城山公園という案内表示を見つけて寄っただけだったので、蓮池城とも知らず、期待していなかった分、良い意味で期待を裏切られました。

雨の中の散策となりましたが、思い切って寄って良かったです。