Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

姫野々城

 土佐七雄のひとつに数えられた津野氏が、累代に渡って居城した山城。半山(ハヤマ)城ともいう。

 津野氏は、伝承によれば、史上最初の関白とされる藤原基経の次男仲平の子経高を祖とする。

 経高は、その羽振りの良さを妬んだ同族に謀反の罪を着せられ、延喜10年(910)に伊予へと流されて河野氏の預りとなり、同13年(913)に河野氏の支援で土佐国高岡郡に入部して津野山一帯の開発領主になったといい、これが津野氏の始まりという。ただ、元仁元年(1224)に当地へ入部したという説もある。

姫野々城最上部の詰ノ段

 また、津野山については、伊予と土佐国境付近の梼原から津野に掛けてと推測されているものの、津野の姓についてどこから取ったかというのには諸説があり、須崎市街の北の吾井郷付近にあったという津野荘や、土佐新荘付近の津野新荘から称したという説があるほか、仲平が権守を務めた讃岐の津野郷や津野山から来ているという説もあり、定説を見ない。つまり、津野山ではなく津野荘から名字を取ったとするならば、海側に最初に入植したとも考えられるのである。

 このように、津野氏成立当初の事績は非常に朧気ではあるが、平安時代末期には、すでに新荘川流域や須崎に勢力を持っていたことが散見され、鎌倉時代に掛けて勢力を蓄えて行ったのは間違いないようだ。また、天暦3年(949)に半山城へ本拠を移したとも伝わっており、この伝承に従えば、姫野々城は平安時代末期には存在したということになる。

兵舎などがあったと見られる姫野々城二ノ段西側

 室町時代に入ると、土佐守護に就いた細川氏に従い、その配下として勢力を伸ばした。ただ、草創の頃からの繋がりなのか、河野氏から当主を迎える場合もあり、室町時代の通重、あるいはその次の之高は、河野氏の出身と見られる。

 中央にまで知られたという之高の子には、元藤と常定という男児がおり、家督は元藤が継いだのだが、不満を持った庶兄の常定が叛乱を起こし、津野氏も内訌の時代を迎える。しかし、この内訌は外部に対する危機感もあり、うまく収まったようだ。そして、元藤の後は、元勝、元実と続き、細川氏の内訌による支配力の低下もあって、津野氏は土佐七雄に数えられるほどとなった。

宗教施設があった可能性のある二ノ段南側

 しかし元実は、永正14年(1517)に一条家臣の福井玄蕃の守る戸波城を攻めた際、連絡を受けた一条氏の援軍による逆襲に遭い、敗死してしまう。この時、元実の子で、まだ幼少であった国泰を後見したのが、定高の孫中平元忠で、当主討死という混乱に付け込んで攻め寄せた安並氏や出間氏を撃退し、国泰からその従兄弟基高に代替わりした後にも、攻め寄せた一条軍を撃退している。

 しかし、天文年間(1532-55)中頃になると、一条氏の攻勢が激しさを増し、支えきれないと観念した基高と忠平は、天文15年(1546)に揃って一条氏に降伏した。こうして、独立した国人としての津野氏の歴史は終わりを迎えたのである。

東の峰筋にある姫野々城東本城

 基高の子定勝は、一条兼定の娘婿、もしくは叔母婿となり、一条家臣として終始していたが、高岡郡には、本山氏を退けた長宗我部元親が迫っており、元親の弟吉良親貞から降伏勧告を受けた。これにより、津野家臣団は一条派と反一条派に分かれてしまい、定勝が一条家臣として元親との対決を選ぶと、これに反対した反一条派の家臣らにより、元亀2年(1571)に弟共々伊予へ追放されたという。

 この後、家臣らは定勝の子勝興を当主に就けたのだが、勝興もまた元親との対決を選択し、1度は長宗我部軍を退けたとも伝わる。しかし、長宗我部軍の勢いに勝てぬことを悟り、元親の三男親忠を養嗣子に迎えて天正2年(1574)頃に降伏したという。

姫野々城の畝状竪堀

 こうして名家である津野氏を継ぎ、姫野々城主となった親忠は、津野家臣団を率いて元親の四国制覇に貢献したが、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐に元親が敗れて降伏すると、その人質として上方に送られた。そして、この人質生活の際、秀吉の弟である秀長の家臣藤堂高虎と懇意になったことが、後々の命運に影響してくる。

 天正14年(1586)になると、秀吉は九州征伐の軍役を発し、四国勢は大友氏支援の先乗り部隊として九州へと渡ることとなり、元親や嫡子信親も、かつての宿敵であった十河存保などと共に九州へ上陸した。だが、秀吉から自重を命じられていた軍監仙石秀久の無謀な決断により、島津軍と戸次川で対決し、秀吉軍は壊滅してしまう。

姫野々城平場1の上側の堀切

 この戦いでは、元親は乱戦の中、辛うじて撤退に成功したものの、嫡子信親は前線で壮絶な玉砕を遂げた。これにより、元親の後継者が不在となってしまうのだが、元親は、他家を継いでいた次男香川親和や親忠を嗣子とせず、まだ少年であった四男盛親に信親の娘を娶せ、嗣子としたことにより、家中では不穏な空気が漂う事となる。

 この盛親に対する嗣子決定の際には、諫言をした吉良親実や比江山親興など、有力一門が処断されているが、後継資格を持つ親忠もまた微妙な立場となり、讒言などもあって出奔を図るも、慶長4年(1599)には幽閉されてしまう。

姫野々城平場2

 この翌年には、関ヶ原の合戦が勃発し、西軍に与した盛親は、徳川家臣井伊直政経由で謝罪を行った。一方で親忠も、懇意だった高虎経由でお家存続を願い出たため、盛親に警戒されて謀殺されたという。また一説には、久武親直が主命と偽って討ったとも伝わる。そして、主を失った姫野々城は、そのまま廃城となった。

 姫野々城は、新荘川左岸の僅かに広がった平地の後背にある標高193mの山に築かれ、詰城的性格の強い立地である。発掘調査では、少なくとも南北朝時代には城として機能しており、また、磁器なども多く出土していることから、険しい山城ながら、城で恒常的な生活が営まれていたようだ。

姫野々城解説板

 城の構造としては、頂上部を楕円形の詰ノ段とし、その西南北の周囲を1段下がった二ノ段が囲み、東の峰筋に東本城、西の峰筋に西ノ丸を構えていた。そして、主郭部の周囲には、無数の竪堀を掘って防御としている。このほかでは、南の尾根筋の中腹に、堀切を挟みつつ2つの細長い平場があった。

 城へは、国道197号線から葉山の集落へと入り、白雲神社へと向かう車道を上って行くと、大きな駐車場が用意されている。主郭部への登山道は非常に整備されており、15分程度で主郭部に到着することができる行程で、要所要所にはしっかりと案内が設置され、非常に散策しやすい城だった。ただ、竪堀は藪化して確認しにくい場所も多く、草木が無ければ見事な畝状竪堀だったと思われ、そこだけが残念である。

 

最終訪問日:2019/11/12

 

 

切り立った川筋にあるお城だけに、こんな立派な駐車場が整備されているとは思いませんでした。

とても有り難いですね。

登山道も、登った満足感がありつつ、そこまで疲れるほどでもなく、ちょうど良かったです。

毎日登山会とかで登るにはちょうど良いかも。