Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

二條陣屋

二條陣屋前景

 二条城や京都所司代に伺候する中小大名の陣屋として利用された建物で、両替や米穀が生業の、豪商萬屋の店舗兼住宅として建てられたものである。

 萬屋を興した平右衛門の父は、豊臣政権期に大名であった小川祐忠で、平右衛門はその嫡男という。ただ、現地案内板にはその名は千橘とあったが、史料に出てくる嫡男は祐滋といい、どちらが実際の平右衛門だったのか、あるいは両者が同一人物だったのかはよく分からない。一方で、大和国吉野郡小川郷の豪族だったという説もあり、こちらも根拠となる物証があるという。

 小川祐忠の小川家は、近江源氏嫡流佐々木六角氏の重臣だった家系で、六角氏が衰退して浅井氏が台頭した頃には浅井氏の家臣となっていたが、祐忠の代に浅井氏が信長に敗れ、織田氏に属した。その後、祐忠は、天正10年(1582)の本能寺の変直後は明智光秀、光秀が敗れると柴田勝家の養子勝豊に仕え、さらに勝豊が翌年の賤ヶ岳の合戦直前に秀吉に寝返った後、勝豊が病没すると、秀吉に出仕するようになり、やがて伊予の今治7万石を領するようになっている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦でも、祐忠は当初西軍に属し、戦いの最中に東軍へ寝返った。だが、それまでは敗者側に居ながらも不思議と勝者に拾われて生き延びていた祐忠ではあったものの、この時はさすがにその強運も尽きたようで、それまでの内応歴が嫌われたのか、三成と嫡男祐滋が親しかったからかは不明だが、結局は改易となってしまっている。

二條陣屋説明板

 父と共に禄を失った平右衛門は、やがて京に出て商いで成功するのだが、三成と昵懇であった嫡男祐滋が平右衛門であるとするなら、三成や長束正家増田長盛などとともに、理財に詳しかった近江武士の系列に属していたと思われ、商人としての素養は十分だったのだろう。ただ、平右衛門の父が祐忠であればという前提での話で、推測の域は出ない。

 建物は、寛文10年(1670)頃に建設された萬屋の店舗兼住宅が、天明8年(1788)の大火で焼失し、嘉永年間(1848-55.1)に再建されたものである。また、前述のように中小大名が京に滞在する時の宿舎でもあった。平右衛門は、最初は現在の弁護士や司法書士のような仕事をする公事師として身を起こしたともいわれ、もともとは裁判を待つ間の宿、つまり公事宿もしていたという。それが萬屋の発展により、上級武士の宿舎としても認められるようになったようだ。

 建物は、現在は火災や改築などで店舗構造は無くなっているらしいが、内部は隠し階段や釣り階段、見張用の武者隠しなどの身辺警固のための設備、防火や飛び火による類焼防止の工夫が施されている。また、内装なども、豪商の住宅及び上級武士の宿舎として贅を尽くしてあり、当時の高級住宅がどのような感じであったのか知るには丁度良い。

 このような建築的価値から、建物は昭和19年(1944)に旧国宝に指定され、同25年(1950)には重要文化財に指定された。民間の住宅としては、全国で2番目の指定だったという。ちなみに、ニ條陣屋とは、公開にあたって新たに付けられた名前ので、見学には予約が必要である。

 

最終訪問日:2008/10/8

 

 

急遽訪れたので、予約も無く、内部は見学できませんでしたが、建物には重厚な趣がありました。

内部は忍者屋敷に匹敵する設備があるとのことなので、次に訪れる時は、予約必須ですね!