Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

今川了俊墓

 今川了俊は、諱を貞世といい、南北朝時代に主に九州での活躍で名を馳せた武将である。

 了俊は、宗家である足利氏に従って南北朝時代駿河遠江を務めた今川範国の次男として生まれ、今川家の家督自体は兄の範氏が継いでいたが、貞世も幕府の要職を務めるなど、別家として独自に活動しており、ある程度の声望を得ていたようだ。

 その名が世に響くようになったのは、応安3年(1370)に九州探題に補されてからである。翌年末に九州へ入部した了俊は、大内氏や大友氏といった北朝方豪族の協力を得て懐良親王や菊池氏の打ち建てていた征西府を破り、博多や大宰府を奪回して北朝方の勢力回復に成功した。

 ところが、南朝方の主力である菊池氏討伐を目前に控えた肥後国水島で、永和元年(1375)に招集に応じた少弐冬資を謀殺したことから、冬資を説得して参陣させた島津氏久も陣を払って帰国してしまうなど、北朝軍は崩壊の危機に瀕し、それに乗した南朝方の逆襲に敗れてしまう。

 これにより、九州の制圧は一時的に大きく後退してしまったのだが、やがて勢力を捲き返した貞世は、永和3年(1377)に蜷打の合戦で南朝方を大いに破り、永徳元年(1381)には菊池氏を追い落とし、島津氏を帰順させるなど、南九州までの勢力圏拡大に成功する。

今川了俊の墓

 その後も、南朝方の挽回などで攻防が続いたが、了俊の子貞臣を征討の大将として派遣し、貞臣は肥後国宇土、次いで八代へと移っていた征西府を陥落させた。これにより、叔父懐良親王から征西将軍職を譲られていた良成親王と、明徳2年(1391)に和睦を結ぶことに成功し、九州での南朝方の実質的な抵抗を終結に追い込んだ。また、この翌年には、中央でも南北朝の合一が成っている。

 こうして、最も南朝勢力の強かった九州における征討の大功を挙げた了俊であったのだが、応永2年(1395)に上洛した際、突然として九州探題職を解かれてしまった。

 この解任劇については、原因としていくつかの説があるが、九州での勢力が競合する大内義弘と大友親世による讒言説が古くからいわれている。だが、有力な守護大名を潰して権力基盤の強化に励んでいた3代将軍足利義満の治世であり、勢力争いを義満に利用されたという側面が強いのではないだろうか。

 要因はどうあれ、探題職を解かれた了俊は、替わって駿河遠江半国守護に任ぜられたのだが、権益の争いに勝利したはずの大内義弘が応永6年(1399)に幕府に対して応永の乱と呼ばれる謀反を起こした際、了俊は、義弘とそれに呼応した鎌倉府の足利満兼の間を仲介したと疑われ、両国の半国守護すらも失ってしまう。さらに、今川姓を名乗ることが禁止されてしまったため、僅かに与えられた堀越を姓として称した。

今川了俊墓の説明碑

 この後の了俊は、政治的活動を控え、文人としての活動に終始するようになる。その範囲は広く、史書である「難太平記」のほか、作法や心得を収めた故実書である「了俊大草子」、礼法をまとめた「今川了俊書札礼」、様々な指南書や手本書である「今川状」、紀行文である「道ゆきぶり」、歌道書である「言塵集」やそのほかの歌集など、非常に多岐に渡っていた。武将としての声望が高い了俊であるが、文人としての力量も相当なものだったようだ。ただ、晩年の活動は不詳で、没年は定かではなく、87歳で没したとも、応永27年(1420)に96歳で没したとも、同25年(1418)にはすでに没していたともいう。

 今川氏発祥の地である今川館跡にある了俊の墓は、実際に了俊が葬られた場所ではなく、江戸時代に西尾藩士によって建立されたものであり、実際に葬られた場所は、堀越城跡の海蔵寺である。だが、田園の中に丁寧に区画されたこの一角も、周囲とは違った寂びた雰囲気を持っており、墓所らしいと言えば墓所らしいとい言えるだろうか。武将としての了俊よりも、文人としての了俊を連想させる墓所である。

 

最終訪問日:2015/5/24

 

 

了俊の墓を訪ねたわけではありませんでしたが、今川氏の発祥地と、南北朝時代の今川氏のスターである了俊の墓と、どっぷり今川氏という感じの場所でした。

功績や書物を見ると、もの凄い人なんですが、時代もあってか、それほど名は知られていないですね。

信長の野望でステータスを数値化すると、とんでもない数値になるんじゃないかと思う武将のひとりです。

名前もかっこいいしね。