眼下に千種川と岩木川を廻らし、後方を安室川が遮っている生駒山にある山城。
白旗城を本拠とした赤松氏によって支城として築かれたとされる。建武3年(1336)に新田義貞が侵攻してきた際には、赤松円心則村が籠った白旗城や苔縄城と共に、駒山城も防衛網の一翼を担ったのだろう。
築城者は、則村の三男則祐とも、戦国期の安室義長ともいわれる。安室氏は、則村の曾孫満貞の流れといわれ、天文年間(1532-55)に2kmと少しほど西の大聖寺山城からこの城を築いて本拠を移してきたという。城を再築したとすれば、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で、本城である白旗城が落城した際に放棄され、以後は空城になっていたのかもしれない。
一方、大聖寺山城の伝承では、義長は満貞の子とあり、播磨鑑には赤穂郡内の13ヶ村と和気郡を領して永享3年(1431)に没した人物とある。この2つの城で同じ安室義長という名が出てくるが、同名別人の武将なのか、単に1世紀ほどずれて混同されているのか、よく分からない。
この後、義長の子新五郎が継ぐが、幼少の為、長船貞親が城を守備したという。長船貞親と言えば、宇喜多三老のひとりで、これは、駒山城や安室氏が宇喜多氏の影響下にあったことを物語っている。時期としては、旧主である浦上宗景を宇喜多直家が打倒した天正3年(1575)以降の話だろう。
そして同5年(1577)、小田、吉田、内海、片島という地侍に城は攻撃されているが、当初は落ちず、軍学に通じた高見治部という浪人の力を借りて城に火を放ち、落城させたようだ。この戦いがあった年は、上月城の攻防が始まった年であり、毛利方だった宇喜多氏の城を織田家重臣の秀吉勢が攻めたという構図と思われる。この後、城の事績は不詳で、火災落城で荒れたまま廃城になったのではないだろうか。遅くとも、秀吉が播磨国内の不要な城を城割した天正8年(1580)頃までには、廃城になっていたのは間違いないだろう。
城跡では、現在も石垣というよりも石塁というべき石積みの跡や堀切など、その当時の遺構が確認できる。城の規模は小さく、主に2つの郭で構成されており、本丸よりも二ノ丸のほうが大きいという構造で、その両郭の間は空堀で大きく隔てられており、典型的な中世的山城といった趣だ。
城は、上郡市街の北端にあり、登山道は整備されているが、岩質のせいかレキ石が多く、道が滑りやすい。訪れる際は、しっかりとした靴を用意した方がいいだろう。城跡自体は、きちんと手が入れられているようで、草が刈られ、非常に散策し易く、景色も含めて気持ちが良かった。
最終訪問日:2001/11/17
日が暮れるか暮れないかという時間に登り始めたんですが、道も良く、難なく登城できました。
遺構自体はシンプルながら、中世山城の雰囲気が味わえます。
市街地に近く、ハイクするには最適な城ですね。