Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-岐阜

墨俣城

一般に伝わる伝説では、長良川とその支流が入り混じるこの地に、かの秀吉は一夜で城を築いたとされており、一夜城とも呼ばれる。 永禄7年(1564)に犬山城の織田信清を国外へ追い、尾張一国の支配を確立した信長は、次の目標を美濃に定め、墨俣に橋頭堡となる…

篠脇城

篠脇城本丸の城址碑と奥側に見える土塁 篠脇城は、美濃東氏が累代に渡って居城した山城で、シノワキと読む。 篠脇城を居城とした東氏は、トウと読み、桓武平氏千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘に住んで、地名を名字としたことに始まるという。 胤頼は、京の警…

桜洞城

農地の脇にある桜洞城址碑 飛騨南部を掌握していた三木氏の居城。 三木氏はミツキと読み、そもそもは佐々木京極氏、あるいはその守護代である多賀氏の被官である。血統としては、宇多源氏佐々木氏流多賀氏の庶流ともいわれるが、多賀氏自体は、多賀大社を氏…

鷺山城

最高部の本丸跡の城址碑 伝承では、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる文治3年(1187)に、佐竹常陸介秀義が築城したと伝わる城。 だが、その後は城の記録が途絶え、室町時代には美濃国守護職にあった土岐氏の所有となり、土岐一族が城主となっていたというが…

黒野城

黒野城址碑と本丸土塁 文禄3年(1594)に甲斐より入封した、加藤貞泰によって築城された平城。 貞泰の父光泰は、最初は斎藤氏に仕えていたが、その滅亡後は秀吉に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変の後は、丹波亀山城や近江高島城、大垣城などの城主を務めた。…

岐阜城

鎌倉幕府の政所執事二階堂行政が、京への抑えとして建仁元年(1201)に築いたのが最初という。岐阜城と名付けたのは信長で、それ以前は稲葉山城や金華山城、城下の名から井ノ口城の名で呼ばれた。 築城後は、行政の子とも娘婿ともされる佐藤伊賀守朝光が城を譲…

北方城

入り組んだ住宅地の中にある北方城址碑 西美濃三人衆のひとりに数えられた、戦国時代の武将安藤守就の居城。 安藤氏の出自は明確ではないが、藤原秀郷の流れである伊賀氏の出とされる。伊賀氏は、鎌倉時代初期の朝光の時に伊賀守の官名から名乗りを変えた家…

木越城

木越城本丸の朽ちかけた城址碑 近世遠藤氏発祥の城。遠藤氏の系図によれば、篠脇城主であった東常縁の庶子盛胤が築いたとされる。 美濃の遠藤氏の来歴を探っていくと、東氏の庶流ではなく、その家臣として登場する武将が多い。東氏は、坂東八平氏に数えられ…

川手城

美濃守護を累代に渡って務めた土岐氏の居城。革手城とも書き、現地でも、城址碑は川手、説明板は革手の表記だった。 土岐氏は、現在でも土岐という地名があるように、美濃国土岐地方に興った武士団である。その祖は、ライコウさんとも呼ばれる摂津多田源氏の…

加納城

加納城の本丸石垣と埋め立てられた内堀の跡 加納城の南東には、室町時代に美濃国守護であった土岐氏の本拠革手城があり、加納城のあった場所には、土岐氏の下で守護代を務めていた斎藤利永が、文安2年(1445)に築城した沓井城があった。ただ、城と言っても、…

加賀野城

文保元年(1317)に後藤基直が築城したとされ、以降は後藤氏累代の居城であった平城。 加賀野城の後藤氏の出自は詳らかではないが、美濃守護代斎藤氏と同じく藤原利仁の流れで、斎藤伊博の子後藤公則から派生した後藤氏の後裔ではないだろうか。この系統には、…

大垣城

大垣城は、応仁年間(1467-69)にはすでにあった平城で、この地の代官職をしていた大垣氏が築城したとされる。築城当初は東大寺城と呼んでいたが、大垣氏の居城であることから、いつしか大垣城と呼ばれるようになったという。 大垣城が本格的な城として機能す…

江馬氏下館

復元された江馬氏下館 江馬氏の平時の居館で、国指定の史跡。 江馬氏は、平清盛の異母弟である経盛の流れとする桓武平氏の血統で、飛州志では、経盛の妾腹の子であった輝経が北条時政に養育され、伊豆国田方郡江馬荘から江馬小次郎を称したという。 一方、ほ…

赤谷山城 (東殿山城)

郡上八幡城にある東殿山城の説明板と東殿山 奥美濃の豪族、東氏の最期の城。ただし、この赤谷山城と、同じく東氏の居城とされる東殿山城には諸説があり、両城は同一であったとも、峰違いで隣接しつつも異なった時代に築かれた城ともいう。 同一とする場合に…

日本ライン

長野県から伊勢湾へと注ぐ木曽川の中でも、岐阜県の美濃加茂市太田から愛知県の犬山市にかけての約13kmは、美濃加茂や可児周辺の盆地から濃尾平野へと抜ける山間の区間で、山並みを間近に見ながら下る渓流美から、日本八景河川の部で1位に選ばれている。 そ…