Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城

海尻城

佐久郡南部の豪族である伴野氏の家臣、井出長門守が築いたと伝わるが、築城時期は不明である。もともとは、南の甲信国境に対する監視連絡拠点として築かれたのだろう。 伴野氏は、戦国時代には、同じ小笠原氏の庶流であった大井氏と、佐久郡の支配権を争って…

内山城 (信濃)

傾いていた内山城本丸の城址碑 永正年間(1504-21)に、大井玄岑が築城したいわれる山城。ただし、玄岑が築城したのは、内山城から尾根筋を伝った東にある内山古城ともいい、これが本当であれば、後に一帯を支配した武田氏による築城の可能性が高くなる。 大井…

上原城

上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの…

上ノ平城

上ノ平城は、平安時代末期に伊那馬大夫と称した、源為公によって築城されたと伝わる。 為公は、清和源氏の主流である源経基の流れで、経基の五男満快を祖とする家に生まれ、この家は、主に東国の官職を歴任していた。為公の父為満は、同じ経基流の中でも最も…

上田城

千曲川の分流である尼ヶ淵にあった河岸段丘の断崖上に建っていた城で、台上から見れば平城、川の側から見れば平山城に見えるという、いわゆる崖城である。天正11年(1583)に真田昌幸によって築かれたが、その前身には土豪小泉氏の館か砦があり、小泉郭がその…

有賀城

有賀城本丸の城址碑と解説板 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀…

与板城

与板城縄張図 上杉景勝の家老を務めた直江兼続が築城し、居城とした山城とされるが、詳しい築城年代は不明である。一説には、謙信の頃の重臣である直江景綱の築城ともいう。 通説通りに兼続が築城したと考えると、それまで景綱やその養子信綱が本拠としてい…

本与板城

本与板城本丸の城址碑と縄張図と背後の土塁 名前が示す通り、古い方の与板城で、当然ながら築城当初はただの与板城と呼ばれていた。 中世の与板に関する資料が少ないためか、この本与板城の築城時期などもはっきりしないが、伝承では、新田義貞の長子義顕の…

村上城

今は村上城と呼ばれ、所在地も村上市となっているが、元は豪族本庄氏の居城で、本庄城や本荘城と書いた。そのころは中世的な山城だったと推定され、鎌倉時代の築城という伝承もあるが、本格的に構築されたのは戦国時代初期とされ、本庄時長か、その子房長に…

琵琶島城

詳しい築城年代は不明だが、近くの鵜川神社の由緒によると、上杉房方に従って伊豆から入部した宇佐美秀満の弟祐益が、応安元年(1368)に築城したとあり、それ以降、戦国後期まで宇佐美氏の居城だった。また、字は枇杷嶋、枇杷島、琵琶嶋とも書く。 宇佐美氏は…

長岡城

長岡城本丸跡の碑と石垣をモチーフにした石材のオブジェ 江戸時代の長岡藩の城。芋引形兜城ともいう。 長岡城が築かれる以前は、古くは越後長尾氏の一族であった古志長尾氏の景春が、やや北の信濃川沿いにあった蔵王堂城に在ったことが見え、戦国時代には上…

栃尾城

栃尾城の本丸と切岸 栃尾城のはっきりした築城時期は不明だが、城としての体裁を整える以前より砦として使われていたと伝わる。ただ、険しい山上の立地や、目ぼしい記録も無い事から、恒常的に使われていなかったのかもしれない。 最初に城という形として築…

東城砦 (監物城)

春日山城の東北方向にあった出城。地図には監物城とあった。 春日山城下の惣構を成す監物掘の東北端に位置し、城下から大手方向を監視するための出城である。規模は小さいが、春日山城の麓一帯においては重要な城砦として整備され、北側の池と共に防御力を高…

高田城

江戸時代の上越を治めた高田藩の城で、徳川家康の六男松平忠輝の居城として、直江津にあった福島城を廃して慶長19年(1614)に築城された。 忠輝の舅であった伊達政宗が普請総裁となり、東国13大名が普請して4ヶ月という短期間で完工したが、時間的制約からか…

新発田城

新発田藩溝口氏の城であるが、古くは越後の国人新発田氏の居城があった。 城は、平野部にあった平城だが、周囲は湿地や沼、深田に囲まれ、さらに戦時には加治川の堤防を切って難攻不落の城と化したという。そのため、浮船城という名もある。 新発田の古城の…

坂戸城

越後守護代である長尾氏の庶流上田長尾氏が居城とした山城で、上杉景勝、直江兼続ゆかりの城としても知られる。国指定の史跡で、坂戸はサカドと濁って読む。 坂戸城が築かれた時期には諸説あるが、鎌倉時代に城周辺の上田荘を領した新田氏の一族が、前身とな…

蔵王堂城

城跡のすぐ隣にある金峯神社は、江戸時代以前の神仏習合の時代には蔵王権現と呼ばれており、その蔵王堂の横に築かれたことが、蔵王堂城の名の由来という。 城の前身は、南北朝時代に北朝方だった揚北の中条氏が置いた陣で、正平7年(1352)に南朝方の風間信昭…

春日山城

現地にある春日山城鳥瞰図 あの上杉謙信の居城として有名な城で、五大山城のひとつ。 謙信は、もともとは越後国守護代を務めていた越後長尾氏の出である。その長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景…

安田城

安田城は、天正13年(1585)の秀吉による佐々成政討伐の際に築かれたと推測されている。ただし、築城年代については異説もあり、更に年代が遡る可能性もあるようだ。今後の史料発掘が待たれる。 築城年とされる天正13年(1585)頃の情勢としては、前年の11月に小…

守山城 (越中)

越中三大山城のうちのひとつ。二上山系の城山にあり、二上城ともいう。 守山城の築城時期は不明だが、南北朝時代の建徳2年(1371)に、南朝方の桃井直常が斯波義将の本城守山を攻め落としたと史料にあることから、南北朝時代には既に城として整備されていたこ…

森寺城

森寺城二ノ丸から見る本丸の石垣 能登畠山氏が、越中の拠点として築いた城。当時は湯山城と呼んでおり、一次史料にはその名で登場する。 越中と能登を結ぶ街道は、阿尾川沿いに北上して荒山峠を越える荒山街道が主街道であったが、この街道筋を扼す機能を持…

宮崎城 (越中)

宮崎城説明板 親不知から市振、境にかけて、越後と越中の国境付近は断崖が続くが、その名の通り、越中側の国境である境という地を見下ろす場所に城はある。 境にある境川では、越後勢と越中勢の合戦が幾度もあったが、宮崎城は越中平野部への玄関口を押さえ…

松倉城 (越中)

室町時代から戦国時代にかけての椎名氏の居城で、周辺に水尾城や升方城、北山城などの多くの支城を持つ中世山城である。越中三大山城のひとつ。 松倉城の築城者は不明だが、南北朝時代に越中守護であった井上普門俊清が在城したと史料に見え、延元3年(1338)…

升方城

松倉城の支城である山城。城址碑を見ると、舛方の字も使われているようだ。 松倉城は、南北朝時代から東越中の拠点であり、城主が変遷していく中で随時、拡張と支城網の整備が行われた。升方城もその支城のひとつで、松倉城の北西約1.8kmに位置する城である…

舟見城

舟見城説明板 舟見城は、越中越後境目の宮崎城の城主であった宮崎長康の嫡子入善行重が築いたというが、詳細は不明である。伝統的に、越後から侵入する軍勢に対する監視拠点のひとつであった。 行重の出自である宮崎氏は、藤原不比等の次男房前が興した藤原…

富山城

天文12年(1543)に、神保家臣であった水越勝重が、神通川による自然堤防の微高地に築いた平城。 この勝重には、現在は否定されているが、神保家を再興した長職と同一人物という話が「越登賀三州史」にあり、かつては同一人物と見られていた。また、城自体は、…

天神山城 (越中)

通信鉄塔が建つ天神山城本丸の削平地 標高163mの天神山に築かれた山城で、萩城ともいう。 史料に初めて見えるのは元亀3年(1572)だが、一説には、まだ長尾景虎と名乗っていた頃の上杉謙信が天文23年(1554)に築城したともいい、松倉城との近さから、長尾氏に従…

高岡城

慶長14年(1609)、加賀藩2代藩主前田利長の隠居城となっていた富山城が、城下からの火災によって城内の建物のほとんどを焼失してしまった。これにより、利長は一時、魚津城に身を寄せるのだが、やがて、富山城の再建ではなく、新たな隠居城として関野の地に城…

白鳥城

富山市街の西にある呉羽丘陵に築かれた山城。 白鳥城の築城年代は不詳だが、弥生時代の集落の跡が見つかっており、太古の昔から、平地に対する軍事的優位を得られる拠点として使われていたようだ。有史時代では、木曾義仲の四天王に数えられる今井兼平が越後…

小菅沼城

武隈屋敷跡の碑と石垣 室町時代に越中国新川郡の守護代であった椎名氏の本拠松倉城の北約1.8kmに位置する出城で、家老であった武隈氏の城。武隈屋敷とも呼ばれる。 武隈氏の子孫が記したという「武隈家記」には、暦応4年(1341)に足利尊氏の命で相模から椎名…