Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-平城

那古野城

名古屋城二ノ丸にある那古野城城址碑 江戸時代に名古屋城があった場所には、戦国時代には那古野と称する古城があった。織田信長が幼少期を過ごした城として有名な城である。 那古野城の一帯は、平安時代末期に開発された那古野荘という荘園で、東大寺別当小…

名古屋城

名古屋城大天守と小天守 三大名城に数えられる事もある城で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家の居城。 名古屋城の城地には、戦国時代にも城があった。一説に信長が生まれた場所ともいう那古野城である。この那古野城が天正10年(1582)頃に廃された後、城…

松ヶ島城

松ヶ島城のあったこの伊勢湾沿いの場所は、古くは保曽久美や細首、細汲と書き、伊勢参宮の古道が通る陸海の交通の要衝であった。 城が歴史に初めて登場するのは、松ヶ島城の名ではなく、前身の細首城、もしくは細頸城としてで、信長が北伊勢に侵攻した永禄10…

津城 (安濃津城)

津城西ノ丸にあった解説板 現在の津市の中心部は、古くは安濃津といい、城も安濃津城と呼ばれていた。 最初に津城を築いたのは、伊勢長野氏の一族である細野藤敦か、その父藤光で、永禄年間(1558-70)のことという。恐らく、細野氏が本拠としていた安濃川上流…

神戸城

神戸はコウベではなくカンベと読む。他に同じ漢字でゴウドなどと呼ぶ場所もあるが、いずれも神社の領する土地や神社に仕える神人の住む土地であったことからの名である。この神戸城周辺は、伊勢神宮の神領であったためという。 この地に城が築かれたのは、天…

福井城

福井城本丸瓦御門付近の石垣と内堀 福井城の前身である北ノ庄城は、北朝方であった斯波高経が建武5年(1338)に構えた足羽七城のひとつであったとも、室町時代の朝倉家当主である教景の弟頼景が築城した城ともいわれ、戦国時代には本拠一乗谷城の北の支城であ…

敦賀城

天正11年(1583)に蜂屋頼隆が築城した平城で、三層の天守があったという。 室町時代には、越前守護代であった甲斐氏の拠点が敦賀城と呼ばれていたようだが、これは一般にはこの付近にあった城ではなく、金ヶ崎城のこととされている。 敦賀城を築城した蜂屋頼…

小丸城

小丸城址碑 越前一向一揆討伐後の天正3年(1575)、越前の府中三人衆に数えられた佐々成政が、味真野の扇状台地に築いた城。 越前は、戦国時代より朝倉氏の領国であったが、天正元年(1573)に信長によって滅ぼされた後、織田家臣となった朝倉旧臣に与えられた。…

小黒丸城

黒丸町の集落の中に建つ城址碑 詳細は不明だが、斯波高経が建武4年(1337)頃に構築した城で、連携して防衛する足羽七城のひとつに数えられる。読み方には諸説あるようだが、城のある黒丸町の読みがクロマルであり、越前朝倉氏創業の黒丸城と区別する為に大小…

北ノ庄城

越前一向一揆討伐後、信長の命で家臣の柴田勝家が越前支配の拠点として築いた城。 北ノ庄城の前身としては、越前朝倉氏の庶流が拠点としていた同名の城があった。また、さらに遡った南北朝時代の建武5年(1338)に、斯波高経が南朝方に対抗して足羽七城という…

小浜城

小浜城の小天守台と大天守台石垣 小浜城は、北川と南川、多田川が集まる地点の三角州の中に、この地に入部した京極高次が築城した平城で、雲浜城ともいう。 高次は、名門である近江源氏京極氏の末裔で、京極氏は、戦国時代には浅井氏に下剋上され、近江北半…

亥山城

亥山城址碑と堀跡の池 越前大野城の城下町にある、日吉神社の境内が亥山城である。城は、居山城や土橋城とも呼ばれた。 亥山城が史料に登場するのは南北朝時代で、「太平記」には、暦応2年(1339)7月に堀口氏政が居山の城より出て5日の間に11城を落としたとあ…

長浜城

長浜城模擬天守と城址碑 長浜城の前身である今浜城は、バサラ大名として名を馳せた京極道誉こと佐々木高氏の家臣、今浜六郎左衛門が南北朝時代の建武3年(1336)に築いた。 この今浜氏は、今浜に勢力を持っていた在地豪族であったが、後には坂田郡上坂田を本拠…

瀬田城

臨湖庵の入口にある瀬田城址碑 古くは勢多城とも表記され、江南の旗頭であった山岡氏の居城であった。 山岡氏は、景行天皇の末裔である伴善男の流れといわれ、代々の当主の名にある通字が「景」であるのも景行天皇の裔であるからという。系図はいくつかある…

膳所城

膳所城跡公園にある城址碑 琵琶湖に張り出した平城の水城で、日本三大湖城のひとつ。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前に、その前哨戦としての籠城戦があった大津城を廃して、合戦翌年に築城された。その理由は、大津城が籠城戦の際に、近くの長等山から城内…

坂本城

坂本城址碑 元亀3年(1572)に明智光秀によって築城された城。琵琶湖の水を取り込んだ水城で、当時は大天守や小天守を擁し、安土城に次ぐ壮麗な城だったという。 築城目的は、その立地場所からも解るように、西の比叡山に対する監視と、東の琵琶湖からの水上交…

大溝城

大溝城天守台 信長が、六角氏や浅井氏を滅ぼして近江を平定した後、湖西の要地である高島郡は磯野員昌に与えられ、新庄城がその拠点であった。 員昌は、もともとは浅井家の重臣で、要衝佐和山城を任されていたほどの勇将であったが、元亀元年(1570)の姉川の…

大津城

秀吉が、天正14年(1586)頃に坂本城を廃し、坂本城主だった浅野長政(長吉)に命じて大津に築城移設したのが、大津城の最初である。 坂本城の機能を大津へ移した理由は、秀吉が叡山と和睦した事によって坂本城の戦略的価値が薄れた事と、信長時代は、安土城から…

筒井城

筒井氏歴代の居城。 筒井氏は、古代の大族大神氏流とされるが、藤姓の説もあり、はっきりしない。ただ、添下郡筒井の土豪から出発し、興福寺の衆徒となり、興福寺の下で勢力を拡大して行ったのだけは確実である。また、筒井城も居館から次第に城郭へと整備さ…

田辺城 (紀伊田辺城)

田辺城水門跡 正式には田辺城というが、他にも田辺城があるため、紀伊田辺城や錦水城とも呼ばれる。錦水城の名から分かるように、川と海に面した水城であった。 戦国時代の紀伊は、畠山氏が守護を務め、その影響力は戦国時代後期まである程度は維持されてい…

宮津城

宮津城解説板 室町時代の丹後は、一色氏が若狭武田氏や山名氏と争いつつも、ほぼ守護職を世襲し続け、戦国期までその勢力を保っていた。戦国末期の当主義道は、信長の上洛以降、その勢力伸張を見て接近したが、将軍足利義昭が天正元年(1573)に信長追討の兵を…

二条城

元離宮二条城の碑 歴史上、二条城と呼ばれた城は複数あり、古くは二条に在った室町将軍の居館をそう呼んだ。転じて、場所に関係なく将軍の居城を二条城と呼ぶようになったという。ただ、将軍家の居城としては、二条御所や武家御所という呼称の方が一般的であ…

田辺城 (舞鶴城)

模擬復元された田辺城の城門と隅櫓 舞鶴市は、軍港の東舞鶴と城下町の西舞鶴に分けられるが、城は当然ながら西舞鶴にある。 明智光秀と共に天正6年(1578)から丹後攻略に取り掛かっていた細川藤孝は、翌年に一色義道を居城の建部山城から追い、その子義定(義…

若江城

若江城址碑 若江城は、畠山基国の命によって遊佐国長(長護)が築いたといい、築城年代としては永徳2年(1382)頃とされるが、一説に応永年間(1394-1428)に掛けての築城ともいう。ただ、基国の没年が応永13年(1406)である為、下限はその年となる。また、大阪府全…

高槻城

高槻城址碑 高槻城は、伝承では正暦年間(990-95)に地元の豪族近藤忠範が築いたというが、史料上で確認されるのは建武年間(1334-38)後期で、北朝側に立った入江春則が高槻周辺で勢力を拡げ、高槻城を補修して居城したとある。ただ、この頃は居館に近い形式だ…

茨木城

茨木小学校に復元されている茨木城櫓門 茨木城は、建武の新政下で摂津を得た楠木正成が建武年間(1334-36)に築城したと伝わるが、あくまで伝承であり、詳細は不明というのが実情である。その他にも、信長の家臣福富秀勝による築城説や、安富元綱の指揮下にあ…

芥川城

芥川城址碑 史料上、芥川城として出てくるのは、この城と山側にあった芥川山城の両方であり、どちらを指しているのか、注意して見る必要がある。 芥川城を築城したのは芥川氏で、芥川氏は出自を平氏としているものの、来歴の詳細は不明という。「高槻市史」…

高松城 (備中高松城)

文献には高松城と記されているが、一般には備中高松城と呼ばれる。 永禄年間(1558-70)末、備中の雄、三村氏の家臣である石川氏が、備前の宇喜多直家に備えて築いたというが、築城者は石川久式とも久孝ともいわれ、築城年代もはっきりしない。その後、高松城…

船上城

船上城のあった一帯には、古くは室町時代に赤松氏が砦を構えていたという。城からすぐ北の和坂には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に、幕府を迎え討つ赤松軍の陣が置かれており、それと連動して防衛線の役割を担ったのかもしれない。 戦国時代の永禄年間(155…

兵庫城

運河西側にある城址碑と説明文 兵庫の地は、大和田(大輪田)の泊として古代から栄え、平清盛が湊から至近の福原に都を移そうとしたのは有名である。このように、兵庫津は中央との繋がりが古くからあり、寺社勢力などとの結びつきが強く、経済的に有力な地であ…